「大将というものは犬と言われようと、畜生と言われようと、勝つことこそが最も大事である」――この言葉を残したのが、北の名族・朝倉氏の軍師として活躍した朝倉宗滴(あさくら そうてき、諱は教景)だ。
朝倉一族が戦国大名として地位を確立したのは孝景の頃で、宗滴はその八男にあたる。
彼は18歳から60年あまりにわたって活躍し、なんと孝景の玄孫である義景の代に至るまで朝倉家の重鎮としてその存在感を保ち続けた。
合戦での功績としては、一族内の内紛で活躍したほか、加賀・能登・越中といった一向一揆の軍勢との戦いで総大将になり、朝倉氏を滅亡の縁から救ったことでよく知られている。一向一揆との戦いにおいては特に1506年(永正3年)に九頭竜川でぶつかり合った戦いが著名で、越前における合戦として最も規模の大きいものであったという。
宗滴の活躍の場は戦場だけではなかった。
古代の兵法者・孫子曰く「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」というが、彼もまた情報の重要性をよく知っていた。
そのため、国内をたびたび視察しては地形を確認し、それどころか周辺・遠方諸国にまで出かけては情報を集め、またスパイを作るなどのさらに積極的な情報収集までしていたようだ。
宗滴が生きている間、朝倉氏は盤石の体制を誇っていた。
彼が亡くなったのは1555年(弘治元年)で、それから十数年後に朝倉氏は織田信長と対立するようになり、ついには攻め滅ぼされてしまう。そしておどろくべきことに、宗滴は信長の躍進を見抜いていたのではないか、と言われているのだ。
先の「大将というものは~」は彼の言葉を側近が書き留めたという『朝倉宗滴話記』によるものだが、この中に「あと3年生きて信長の行く末を見極めたい」という言葉があるのだ。
宗滴が死んだのは信長が戦国の覇者となるよりはるか前で、今川義元を倒した桶狭間の戦いすらまだ起きていない。
にも関わらず信長の将来性を見出していたとしたら、宗滴の眼力はいよいよ恐るべしと言わざるをえない。
戦場での活躍はもちろん、このように正しく人と状況を見極める目を持っていたからこそ、宗滴は朝倉の軍師・重鎮として畏敬の念を向けられたのであろう。