片倉景綱の回で見たように、戦国時代の軍師には「主君の足りないところを補う腹心的存在」というニュアンスが込められることも珍しくない。その意味では、「島左近」の通称で知られた男――島清興(きよおき、勝猛・かつたけとも)は最も相応しい人物の一人と言っていいだろう。
(大英博物館所蔵)
清興は大和の国人の子として生まれ、筒井順慶の補佐をして頭角を現した。
ところが順慶の死後に跡を継いだ主君と喧嘩別れをし、諸国を放浪。蒲生氏郷や豊臣秀長といった名だたる将に仕えたのち、石田三成の家臣となった。
三成は豊臣政権で五奉行を務めた人物であり、典型的な官僚タイプである。
決して武功がないわけではないが、小説『のぼうの城』で有名な忍城攻めの失敗(小田原征伐の際、北条方の城に水攻めを行うも失敗、非常に攻めあぐねた)などの例を見ても、戦場の猛将ではない。
そこで彼は武勇で知られた清興に目をつけたのだが、その誘い方が凄い。
なんと、三成は当時の自分の所領四万石のうち一万五千石(一説には二万とも)を割くという破格の条件を示したのである。
確かに清興という名将にはそれだけの価値があった――なにしろ、のちに「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」などと謳われるような男だ――が、なかなかにできる判断ではなく、清興はこれを意気に感じ、残りの生涯を三成のために尽くすことにしたのである。
やがて豊臣秀吉が死に、徳川家康が天下簒奪を狙って蠢動するようになると、三成はこれを阻止するために奔走することになる。
もちろん、軍事面・策謀面で策を立て、実行する役目が清興に回ってきたであろうことは想像に難くない。
1600年(慶長5年)、美濃国で行われた二大勢力の激突――関ヶ原の戦いにおいても、清興は僅かな兵を率いて鬼神の如き活躍をしてみせた。
しかし、三成方の西軍は多数の裏切り者を出したために敗北し、清興もまた銃弾に撃たれ、力尽きて討ち死にしてしまう。
主君の三成は戦場からは逃げ落ちたものの、のちに捕らえられ、刑場の露となっている。
豊臣政権を存続させようとした三成と、その行いを全力で支えようとした清興は、このように夢半ばに倒れた。しかし、主従が固い信頼で結ばれ、それぞれの欠けた所を補いあったのは間違いない。
これもまた、武将と軍師の理想的な形と言っていいだろう。