一般に、軍師というと知略を尽くして策を立て、主君を助ける武将――というイメージが強いだろう。しかし、戦国時代における軍師の実相を追いかけてみると、出陣に際しての儀式を執り行ったり、あるいは「今出陣して勝てるのか」などと占うなど、呪術師・占い師的な役割がかなりあったようなのだ。
そもそも軍師の元の呼び名は「軍配者」というのだが、これはそのまま占いや儀式の専門職のことなのである。
そうした軍配者的性質を持つ軍師のうち、ここでは徳川家康のもとで活躍した閑室元佶(かんしつげんきつ)という人物を紹介する。三要元佶(さんようげんきつ)とも。
彼は臨済宗の僧侶で、足利学校という僧侶養成機関の庠主(しょうしゅ・校長のこと)を務めた人物でもあった。
この足利学校は宣教師ルイス・フロイスが「日本でたった一つの大学」と書いたほどに有名な場所で、様々な学問を教えていた。
その中心になったのが易学(占い)であり、また兵学(軍事)なども教えていたので、軍師(軍配者)を求める諸国の大名たちは先を争って足利学校の出身者たちを雇い入れたという。
そんな足利学校の代表である元佶がなぜ家康のために働いたのかといえば、学校運営のためのパトロンが必要であったからだ。
もともと関係が深かった北条氏が攻め滅ぼされ、続いて接近した豊臣秀次(秀吉の甥)も政争に破れて死んでしまった。そこで家康の庇護下に入った、というわけである。
元佶は「関ヶ原の戦い」において陣中の家康に付き従い、合戦日時の吉凶を占った、という。
この点以外にも家康と元佶の信頼関係は深く、元佶は家康の要請を受けて伏見に足利学校の分校というべき施設を作っているし、「関ヶ原の戦い」後に徳川幕府が成立すると、幕府の宗教政策などに深く関わるようになっている。
占いというのはなかなか軍師のイメージとは結びつかないかもしれないが、神仏への信仰が深く、現代だと迷信と思われそうなものも現実と受け止められていた当時、占いは合戦のために必須の情報収集手段であり、それを提供するものは立派な軍師だったのである。