戦国時代の軍師を「儀式・交渉・戦略・築城などの特殊技能で主君の役に立った人物」として考えた時、僧侶がしばしば軍師的な存在として活躍した、というのはすでに紹介した通り。
そこで今回は、豊臣秀吉の外交交渉で活躍した僧侶を紹介しよう。
彼は「応其(おうご)」の名で知られているが、もっと有名な名がある。
それは「木食(もくじき)」――木の実だけを食べる苦行を実践した人に与えられる称号だ。
By Yanmomo - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link
木食応其は近江の生まれで、もともとは佐々木氏に仕える武家の生まれであったという。
ところが四十を超えてから出家し、真言宗の総本山である高野山で阿闍梨という高僧にまで至った。
その木食に、いつの頃からか秀吉は目をつけていたらしい。
1585年には根来寺との交渉を木食にまかせている。
また同時期に秀吉が高野山に圧力を掛けた際は、木食を中心とする高僧たちが秀吉に談判し、その結果として衝突が回避されている。
この際、秀吉が「高野山を救ったのは木食一人のためである。高野の木食ではなく木食の高野とおぼえておけ」と宣言したことが有名だ。
これは秀吉の木食への信頼感を表現するものであるのは間違いないが、それ以上に高野山という巨大な宗教権力の価値を下げ、自らの支配体制に組み込む意図もあったのだろう。
これ以後、木食はたびたび秀吉の外交交渉に携わり、戦を鎮めた。
その代表例が九州征伐に際しての、島津氏との交渉であった。
秀吉死後の1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに際しても、富田信高や京極高次が西軍に降るにあたって仲介を果たした。
ところが、西軍が敗れたために戦後に罪を問われ、以後は隠遁生活を過ごした。
彼が秀吉に力を貸し続けたのは、天下統一を達成させることでこれ以上の血が流れるのを防ぎ、人々を救うためであったという。