昨日は京都府立京都学・歴彩館で開催された、京都乙訓ふるさと歴史研究会主催「戦国武将細川藤孝とその周辺」に参加してきました。
ひさしぶりに小和田先生の講演を拝聴しましたが、2時間があっという間に過ぎるほど楽しかったです。
会場の歴彩館はうちから自転車で行ける距離にあるのですが、今回がはじめてです。
1時間前に到着したのにたくさんの方が並んでました。
大ホール481席のうち400席くらいは埋まっていたと思います。
年配の方が多く、ぼくより若い人は少なかったですが、小学生の参加者もいました。
主催の「京都乙訓ふるさと歴史研究会」は乙訓地方の小学校教員の方々による勉強会で、地域の歴史を掘り起こして、子どもたちに伝えていくためにさまざまな活動をされています。
ちなみに「乙訓」は「おとくに」と読みます。京都の南西部、大阪寄りにあるエリアで、かつては「長岡京」が置かれたり、「山崎の合戦」がおこなわれた場所です。
プログラムの最初は京都乙訓ふるさと歴史研究会が制作された紙芝居を上演していただきました。時間の都合ではしょってましたが、子どもに地元の歴史を伝え、自分たちで探求してもらうきっかけにつくってるそうです。
ほかにも乙訓地域の国衆・西岡衆(にしのおかしゅう)を紹介するマンガをつくったり、わりとぼくらのアプローチと近いなと感じました。
(いまはカードゲームを制作中だとか)
戦国武将細川藤孝とその周辺
第2部は小和田哲男先生による講演「戦国武将細川藤孝とその周辺」です。
最後の質疑応答含め約2時間、たっぷり話していただきました。小和田先生は来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証を担当されていますが、過去の「功名が辻」や「軍師官兵衛」などでの時代考証の裏話を冒頭に話されていました。
以下は小和田先生が語られたとおりの文字起こしではなく、ぼくの手元のメモから抜き出したものです。
時代考証は「原作なし」が最新の学説を反映してもらいやすいのでいちばんやりやすい。「原作あり」でも原作者が存命の場合は説明すると設定を変更してもらえることがあるけど、亡くなっている場合はどうにもならないことが多い。
たとえば「功名が辻」では山内一豊が馬市で見つけた名馬を買うのに妻の千代がへそくりの十両を差し出して、その馬が信長の目に止まり出生したというエピソードがあります。脚本では「安土城下」の馬市となっており、この当時の一豊の年収は現代換算で約2000万円だから、十両(約100万円)の馬くらい余裕で買える。ただしその4〜5年前、長浜か岐阜あたりの設定であれば年収は400万円だからこのエピソードに真実味が出ると提案したが通らなかった。演出家とのやり取りも多い。
織田信長は比叡山をはじめあちこちを焼いているけど、小谷城攻めにかんしては3年にわたって攻めつづけたにもかかわらず一度も火をかけていない。少なくとも文献にはなく、現地の発掘調査でもその痕跡は見つかっていない。これは妹のお市やその娘たちがいるから、さすがの信長も躊躇した可能性が高い。
「江 ~姫たちの戦国~」ではその話を演出家にしていたにもかかわらず、城が炎上していないと視聴者が「城が落ちた」とわかりづらいので「焼いていいですか?」と相談された。事実に反するのでダメですと断ったけど、最終的には根負けして「ちょっとだけなら」と認めたら、冒頭のシーンで小谷城ががっつり燃えていた。セリフ直しも時代考証の仕事。最近は時代劇が少ないので当時の言葉の素養がない脚本家も多い。
「天地人」では「越後は米どころじゃ」というセリフがあったけど、新潟が米どころになったのは昭和に入ってからで、戦国時代にこのセリフが使われたことはない。
ほかにも「鳩が豆鉄砲を食ったよう」や「殿の御眼鏡に適う」といったセリフがよく出てくるけど、鉄砲や眼鏡が普及する前に使われるわけがない。
また失敗談として、「軍師官兵衛」で「とある池」に名前を考えてほしいといわれたので龍野城の近くだから「龍神池」でいいんじゃないかと提案して放送されたら、「龍神池はどこにあるんだ」という問い合わせが殺到して地元の観光協会から苦情が届いたという話もありました。
小和田先生の時代考証苦労話はあちこちで話されてるので、聞いたこと、読んだことがある人も多いかもしれませんね。
ほかにもサラブレッドは戦国時代にはいなかったとか、白菜は明治末期以降の野菜だから時代劇に白菜が出てきたら時代考証の怠慢といった話はよく聞きますよね。
小和田先生が書かれたこの本もおもしろかったです。
ここからが本題です。
そもそも撮影禁止だったのですが、スライド等の投影はなく、数枚のレジュメが配布されました。
(これだけで1時間以上話せちゃう小和田先生はすごいと思いました)
細川藤孝とは
- 三淵晴員の二男として1534年(天文3年)に生まれる→織田信長と同い年
- 細川晴広の養子となる
- 足利義藤(のち義輝・13代将軍)の偏奇を受け、藤孝に
従来、細川元常(会場では「ただつね」と言われてたけど元常のことだと思われる)が養父とされてきましたが、最新の説では細川晴広らしいです。
また偏奇については細川藤孝の場合、「義藤」の下の字をいただいているけど、上の字をもらうほうがランクは高いそうです。足利義晴の偏諱を受けた武田晴信、伊達晴宗などは「晴」の字を、一方、今川義元は「義」の字をもらっているので武田家より今川家のほうが上だと。
足利義輝の御供衆として
- 足利義輝が13代将軍となる、細川氏綱・三好長慶と講和
1552年(天文21年)藤孝は従五位下兵部大輔に叙任 - 義輝・藤孝は三好長慶に逐われ、近江朽木谷へ
1553年(天文22年)8月〜1558年(永禄元年)12月 - 義輝による諸大名間の調停→織田信秀と今川義元の抗争の仲裁など
1559年(永禄2年)の長尾景虎(上杉謙信)上洛の際、藤孝が奏者 - 「永禄六年諸役人付」で藤孝は「御供衆」
この時代の京において三好長慶はキーマンだとおっしゃってました。
来年の大河ドラマでも登場するとかしないとか。
足利義昭擁立に奔走
- 1565年(永禄8年)5月19日、三好三人衆らに襲われて義輝横死
- 藤孝が義輝の弟・覚慶を救出、覚慶が還俗して義昭に
- 近江(和田惟政)→若狭(武田義統)→越前(朝倉義景)
- 一乗谷で明智光秀と出会う、光秀の橋渡しで義昭・藤孝主従を織田信長のもとへ
- 1568年(永禄11年)10月18日、信長に擁立された義昭が将軍になる
朝倉義景が上洛しなかったのは実子を亡くして落胆していた時期だったため。
上洛を急ぐ義昭はほかの庇護者を探していたところ、光秀のいとこが嫁いでいた信長と出会うことになり、ここで歴史が大きく動くわけですね。
- 義昭から藤孝に西岡の地が与えられる、西岡衆を与力とする
- 勝龍寺城に入る
「与力」というのは家臣ではなく、いわゆる指揮命令系統における「ライン」です。「細川藤孝の与力」というのは有事の際には藤孝のもとに集まり、行動を共にすることが決められていた人たちのことです。
「真田丸」で真田昌幸が秀吉の命により、家康の与力に組み入れられていましたが、国衆や小大名は地域の有力大名(エリアマネージャー)の与力になることが通常でした。
なお信長の上洛に伴い、光秀は足利義昭の家臣でもあり、信長の家臣でもある「両属」になります。両方から扶持をもらう身分でした。
一方、藤孝は義昭直属の家臣であり、この判断の差がのちの関係に影響することになります。つまり当初は藤孝のほうが圧倒的に立場が上でしたが、光秀が織田家の中で出世することにともない、また義昭が追放され、藤孝が信長の家臣になった頃には立場が逆転します。
「天下布武」について。
むかしは「武をもって天下を統一する」といった解釈がされていましたが、現在は「武家中心の世の中をつくる」という意味に変化しています。これは公家・寺家・武家の権門体制論において、いまだ荘園領主として権力を持っている公家と寺家の力をそいで、武家中心の体制をつくるという意味でもあります。
また「天下」についても日本全国ではなく、あくまでも畿内、京周辺のことを指しているとされます。
このあたりは信長の前の「天下人」とされる三好長慶について調べるとよく出てきますね。「城たび」をつくったときも読みました。
信長による義昭の追放と藤孝
- 信長と義昭の関係悪化
- 1570年(元亀元年)4月、信長の越前朝倉攻めと光秀・藤孝
- 藤孝は義昭に諫言
- 義昭から勘当される
- 勝龍寺城に逼塞
当初、信長のことを「御父」とまで呼び良好な関係にあった信長と義昭が次第に対立していくことはよく知られています。義昭は精力的に各大名と連携して信長包囲網をつくります。
こうした義昭の行動を藤孝は諌めますが、それが原因で義昭から勘当されることに。前述のとおり、これが織田家へ移籍する原因にもなります。
- 信長から勝龍寺城の普請を命じられる藤孝
- 信長から西岡の一職支配を認められる
- 長岡へ改姓
- 槇島城攻め
- 物集女宗入の忙殺
藤孝は信長から直接、桂川西岸地域一帯(西岡地域)の支配を認められます(一職支配権)。
この時点で西岡衆も完全に藤孝の支配下に置かれることになりますが、それに従わなかったのが西岡衆の中でも実力者だった物集女宗入(もずめそうにゅう)で、そのため彼は藤孝に忙殺されます。
戦国時代ではよくある話ですが、物集女城のある桂川駅から勝龍寺城のある長岡京駅まではJRで二駅なのですごく近かったことが地図上でもわかりますね。
ちなみに長岡へ改姓していたのは知りませんでした。これもよくある話ですが、地名を取ったのかな。
藤孝と光秀
- 光秀と行動を共にする藤孝
- 光秀の丹波経略
- 藤孝の丹後支配
- 本能寺の変と藤孝
最後は来年の大河ドラマに関連して明智光秀の話が中心になります。
光秀は織田家の中で最初の「一国一城の主」になった家臣です(二番目は秀吉)。比叡山焼き討ちの功により、坂本城を築くことを許された光秀はその後も「近畿管領」と呼ぶべき重要な役割をになっています。
藤孝はその光秀の与力として組み入れられます(ほかに筒井氏・中川氏・高山氏ら)。
信長は光秀と藤孝の関係を尊重して、一貫して共同作戦をさせました。ふたりのエピソードとしては丹波亀山城攻めにおいて、光秀は降伏を受け入れようとしたのに、藤孝は「落城寸前の降伏は認めない」と攻撃の手を緩めないのでダメ出しされたとか。
光秀は1581年(天正9年)の京都御馬揃えにおいて奉行を命じられるなど、この時点で家臣団のトップだった。
信長は光秀と秀吉を競わせていたふしがあるが、光秀のほうがこの出世競争に先に疲れてしまったのではないか。それが「本能寺の変」の遠因になっているかも。「本能寺の変」について。
怨恨説はちがう。八上城の母親を人質に出したエピソードも江戸時代の創作。天下取りの野望説もちがう。信長を討ったあとのビジョンがない。黒幕説は朝廷や将軍、イエズス会などいろいろあるが光秀は誰かにそそのかされて行動することはないだろう。四国説は取次役としての面目をつぶされたからなくはない。
小和田先生は非道阻止説として、信長の非道を止めるために謀反を起こしたと話されていました。信長の非道というのは、たとえば暦の統一だったり、太政大臣・近衛前久への暴言だったり、恵林寺を焼いて快川紹喜を殺したことなどが挙げられています。
「父子悪逆天下之妨討候」という手紙(の写し)が残っているそうで、信長・信忠父子の悪虐は天下の妨げで、だから討ち果たしたと書いていることを根拠にされていました。
なお光秀から藤孝へは味方に加わるよう手紙が出されており、そこには藤孝の嫡男で光秀の娘婿である細川忠興を要職につけることも約束していますが、藤孝はこの誘いを断っています。
(当初、「出家して断った」と書いていましたが、どうも出家の時期は異なるようです)
「本能寺の変」についての話は、2013年に参加した「第5回信長学フォーラム」でも話されていました。
最後に細川藤孝と松井康之のエピソードを紹介されました。
ふたりはともに足利義輝に仕えており、「どちらかが先に城持ちになったら、もう片方はその家老になろう」と話していたそうです。
じっさい、先に藤孝が勝龍寺城の城主になると、以後、松井家は細川家の家老として仕えます。のちに忠興の子の忠利が熊本城主になった際も筆頭家老として八代城主をつとめています。
こういう心あたたまるエピソードはホントかウソかわかんないですけどいいですよね。
質疑応答コーナーは4人が質問していましたが、かいつまんで紹介します。
- 藤孝が足利義晴の落胤説があるけど、これは否定されている
- 信長が安土城を築き、京都に城を築かなかったのは公家と距離を置くため
- 山崎の合戦で光秀方に人が集まらなかったのは人望がないというより、秀吉のほうが一枚上手だったから。たとえば光秀の与力だった中川清秀に「信長はまだ生きている」という手紙を出している。むしろ13000人も集まっているのは人望があったと考えるべき
- 藤孝のすごいところは文化人として超一流であったところ、公家よりも上なのは藤孝くらい
知ってる話もありましたが、最後まで楽しい講演会でした。
歴史は多面的に見たほうがぜったいにおもしろいのですが、細川藤孝の視点で捉えてみるというのはいままで一度も考えたことがなかったので新鮮でした。
こうして全国各地で、その地元の武将や国衆を主役に見立てて歴史を捉え直すことをやっていくといいですね。
(物集女宗入目線とかもアリだと思います)
攻城団でもこんなふうに密度の濃いセミナーを今後開催できるといいなと思いました。今回の会場の歴彩館は約5万円と手の届く金額で借りられるようなので、検討してみたいですね。
おまけ
「京都学ラウンジ」というサロンコーナーに「山崎の合戦」布陣図の模型が展示されています。
あと小和田先生の最新著書。来年の大河ドラマに向けて読むといいかも。
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