攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

f:id:kojodan:20220306205331p:plain

摂津の大坂城(大阪府大阪市、現在は大阪城と呼ばれる)は、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地を利用して築いた壮大な平山城である。
この地は秀吉の旧主である織田信長も注目した要地であり、京とは淀川で結ばれ、大坂湾も近くと、政治経済の中心地となれるだけのポテンシャルを備えていた。実際、秀吉の支配化で大坂の地は大いに栄え、江戸時代になっても「経済面の首都」的な地位を保持し続けることとなったのだから、本願寺・信長・秀吉の目は正しかった、ということになる。

防衛拠点として見ても、この地は三方向を川と海によって囲まれた自然の要害であり、かつ巨大な石垣と水堀、全体を大きく取り囲む惣構の堀によって難攻不落の城が作り上げられた。
これに加えて、「象徴の城」としても大坂城はすさまじかった。地下も含めて七層(諸説あり)になる天守閣は外装にも内装にも金銀をふんだんに使い、かつ黒漆で外壁を漆黒に染めたとされる。黒と金に輝く大坂城は、現代の白亜の城とはまた違う威圧感を放っていたのだろう――九州の大名、大友宗麟は大坂城について「天下無双の城」と語っている。

秀吉の死後はその跡継ぎである秀頼が入り、ここを居城とする。
しかし関ヶ原の戦いで天下の実権は徳川家康に移り、やがて豊臣氏と徳川氏(江戸幕府)の対立が加速。二度にわたる合戦の末に豊臣氏は滅び、大坂城もまた炎の中に消えた。
戦後しばらくして、幕府が城の再建に着手する。幕府は大名たちに命じて工事に取り掛からせ、約10年の月日を費やして大坂城を完全に再建した。これは縄張も大きく異なり、かつ江戸時代風の自亜の城である。のちに幕末の動乱や太平洋戦争で崩壊したものが昭和に入ってから再建され、現在はコンクリート製の城がそびえ立っている。

それでは、どのように大坂城は落ちたのか。大坂の陣の事情について見てみよう。
1614年(慶長19年)、両者の衝突が決定的になると、家康は各国の諸大名に出陣を命じ、大坂城を取り囲んだ。一方、大坂城に入ったのは浪人衆ともともとの家臣団だけであり、豊臣恩顧の諸大名が駆けつけることはなかった。
このような情勢の中、大坂城内では真田信繁(いわゆる「真田幸村」)など一部には打って出ることを主張するものもあった。しかし、大坂城を囲んだ兵だけでも20万弱という幕府の大軍に対し、豊臣方の軍勢はあくまで少数に過ぎない。この兵をさらに分けて迎撃してもただ敗れるだけ、それならば「大坂城の防御力を活かして籠城するべき」、ということで話が固まった。

籠城戦というものは本来援軍のあてがあってやるものではあった。
しかし、頑丈に守り続けて幕府軍が攻めあぐねるようなことがあれば、「なんだ、幕府もたいしたことはないな」と判断した諸大名の軍勢がその場で裏切る、あるいは地元で兵を挙げる、ということも起こりうる。まかり間違って時の将軍・徳川秀忠、あるいは実権を握る大御所・徳川家康が倒れるようなことがあれば、いよいよ諸大名の蜂起が相次いでもおかしくない――こんな計算も豊臣方にはあったかもしれない。
情勢は幕府側圧倒的有利ではあったが、まだまだ波乱が起きる余地はあったのだ。

このような事情を抱えつつ始まったのが「大坂冬の陣」である。当初、籠城側は大坂湾からの攻撃にも警戒し、城の西方にある木津川口に砦を築いて敵を迎え撃つ準備をしていた。この砦は緒戦で落とされ、大坂城は四方を包囲されてしまったものの、籠城側の抵抗は強く、なかなか決着は付かなかった。
特に激戦となったのが、城の南方である。というのも、大坂城はそのほとんどを広大な水堀で囲んでいたのだが、南方だけは空堀となっていて、ここが弱点であったからだ。もちろん、幕府側はこちらに主力を配置して、激しく攻めかかった。秀忠や家康が陣を置いたのも、城の南方である。

しかし、信繁が東南の位置に出丸「真田丸」を築き、そこから鉄砲による猛攻を行って頑強に抵抗したので、幕府方の軍勢はなかなか進撃できない状況に追い込まれてしまった。
これに対し、家康は大砲によって繰り返し砲撃を行ってみせた。これは命中して被害を与えることよりも、轟音と恐怖によって心理的な揺さぶりをかけることが目的であったようだ。また、ちょっと面白いところでは「淀川の水をせき止めることで、城内の水堀の水位を下げる(通常、水堀は川や池から水を引き入れているので、水源を断てば水量が減る)」とか「城の塀に穴を開ける」などの作戦もこの時期に行っている。この二つの作戦も、実効というよりは脅しの面に重点を置いているような印象があるのは、私だけだろうか。

真実はともかく、実際にこれの作戦は功を奏したようだ。
そもそも、鉄砲や弾薬といった物資に不足があり、かつどこからも援軍が来ないような状況では、結局のところ戦い続けるのに限界がある。豊臣方も和睦に応じ、いくつかの条件をつけて一時停戦、ということになった。

――しかし、これこそが幕府の罠であった。
幕府は和睦の条件の中にあった「惣構の堀(城下町全体を含む防御構造)を埋め立てる」という項目を拡大解釈し、内堀以外のすべての堀を埋め立て、かつ塀や櫓まで破壊する、という強硬手段に出たのである。
もちろん、こんなことをして和睦が続くはずもない。大坂城方は再び合戦の準備を始め、それを再戦の口実にして家康もまた再び諸大名に出陣を命じた。戦国時代の最後を飾る大戦、「大坂夏の陣」の幕開けである。

堀を埋められてしまった大坂城では、もう籠城戦はできない。家康は策によって天下の名城を無力化してしまったわけである。
こうなれば、豊臣方としても出陣し、進軍してくる幕府軍を途中で迎撃する野戦に挑むしかない。しかし城の守りがなければ、兵力に劣る側が勝てるはずもない。それで勝てる余地があるなら、最初からそのようになっていたのだから。
度重なる戦いの中で名だたる名将が次々と討ち死にする。最後の決戦となった戦いの中で、信繁は三度にわたる家康本陣への突撃を敢行。家康まで後一歩と迫ったものの、側面からの攻撃にこらえきれず、力尽きた。

大坂城は内部からの火で燃え、追い詰められた秀頼とその母で大坂城の実権を握っていた淀殿もまた、自刃して果てた。
豊臣政権はその後継者と象徴を失って完全に消滅し、以後長い間武士同士の大規模な合戦は日本より絶えてなくなった。戦国時代は終わったのである。大坂城の炎上は、まさにその象徴であった。

kojodan.jp

kojodan.jp

kojodan.jp

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する