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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台②――悲劇の女城主伝説の城・岩村城

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もうひとつ、女城主と城にまつわる物語を紹介しよう。ただし、こちらは鶴崎城のそれよりもはるかに悲劇としての色合いが強いエピソードなのだけれど。
信濃と美濃の境目に築かれた岩村城(岐阜県恵那市)は、標高721メートル、高度差でも180メートルという地形を活用した難攻不落の名城であり、「日本三大山城」のひとつにも数えられる。霧が立ち込めるところから「霧ヶ城」の別名もある。古くより遠山氏が城主であり、戦国時代には遠山景任(とおやま かげとう)が織田氏の支援を受けつつ武田氏の攻撃を撥ね返していた。その後この城は動乱の中で幾度か主を変え、江戸時代には松平氏の居城となる。

物語の主人公は景任の妻で織田信長の叔母にあたるおつやの方だ。
当時としては当然のことながら政略結婚であり、信長がそれだけ岩村城の価値を評価していた、ということなのだろう。実際、1571年(元亀2年)に景任が死去すると、信長は跡継ぎとして四男(五男説も)の勝長(かつなが)を養子に送りこんでいるほどだ。ただ、彼はまだ8歳と幼い。そこで、しばらくの間はおつやの方が城主ということになった。

2年後、東美濃への進出を企てる武田軍が岩村城に攻め寄せた。この軍を率いるのは秋山信友(あきやま のぶとも=虎繁)という武将である。
これに対し、信長は京にいて、岩村城に援軍を送ることができなかった。しかし、岩村城が落城寸前に追い込まれたところで、信友はあえて降伏を持ちかけてきた。条件は二つであったという。
ひとつは、養子の勝長を人質として差し出すこと。もうひとつは、おつやの方が信友の妻となることだった。これらの条件を受け入れれば城兵の命は助けるということで、おつやの方はやむなく承諾。岩村城は開城し、武田方のものとなった。

これに激怒したのが信長である。事情はあれど、勝手に城を明け渡され、しかも息子を人質に差し出されたのだから、彼の立場からすれば無理もない。1575年(天正3年) の「長篠の戦い」で武田氏が衰退の道をたどりつつあった隙を突き、嫡子の信忠に命じて岩村城を攻撃させたのである。
こうして岩村城は包囲され、兵糧攻めにあった。城から打って出た城兵が、織田方の陣に夜討ちを仕掛けることもあったが、信忠が先頭に立ってこれを撃ち破っている。包囲戦は半年近く続き、岩村城は限界に追い込まれた。

そこに織田方から「降伏すれば命は助ける」という申し出があった。これを信じて信友とおつやの方は降伏して城を出たが、織田方はその約束を破って二人を処刑してしまった。
結局、おつやの方は逆さ傑という無惨な最期を遂げたという。さらに、織田軍は城内に残っていた兵や遠山一族の投降を許さず、城に火をかけて焼き殺してしまった。これにより、遠山氏は滅亡したのである。

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