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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑨――武田信玄に苦汁をなめさせ、内応であっさりと落ちた城・砥石城

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堅固な山城である砥石城(戸石城、長野県上田市)はもともと北信濃の豪族・海野氏のものであったが、同じく北信濃の有力者であった葛尾城主の村上義清(むらかみ よしきよ)がこれを奪い取る。
武田信玄の信濃侵攻において強大な壁となり、「生涯にわずか二度」という信玄の敗北の相手になったのが彼、義清であった。そして、そのうちの一度、「砥石崩れ」と呼ばれる戦いの舞台こそが、この砥石城だったのだ。砥石城自体はやがて武田氏の家臣である真田氏のものとなり、第二次上田合戦の記録の中にその名前が出てくる。

1548年(天文17年)に第一の敗北である「上田原の戦い」で義清に敗れた信玄はその2年後、義清が別の敵と戦っている隙を突いて、武田氏と村上氏の勢力の境目として重要な拠点である砥石城に進撃した。
信玄はまず偵察隊を送り、城の様子を慎重に確認した後で、攻撃に踏み切った。これに加えて村上方の豪族に対する調略も行い、城攻めはうまくいくかと思われた。ところが砥石城の守りは堅く、1ヶ月にも及ぶ攻防戦で武田軍が疲弊したところに、義清の率いる本隊が後詰としてやってくる。

危機に陥った武田軍は撤退を開始し、熾烈な追撃を受けて大きな損害を出しながらも、どうにか逃げ延びた。
この際、信玄の軍師・山本勘助が村上軍を一時的に南に引き離したことが武田軍を大いに助けたというが、勘助という人物には非常に不明瞭な点が多いため、どこまで信じていいかは微妙なところだ。

こうして大いに名を上げた砥石城だったが、この翌年にはあっさり落城してしまう。義清が城を空けていた隙に、武田方の武将である真田幸隆(さなだ ゆきたか=幸綱)が留守を守る武将に接近、寝返らせたのだという。信玄ほどの大名を退けた城が戦わずして落ちるのだから、運命というのはわからないものだ。

砥石城の落城をきっかけとして、村上氏は衰退の道をたどった。
家臣団に次々と寝返られてしまった義清は翌年に葛尾城も放棄して、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ下ることになる。これがまた信玄と謙信の長年にわたる戦い、「川中島の戦い」のきっかけとなるのだが、それはまた別の物語である。

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