様々に城攻めの手法はあれ、ダイナミックさにおいては水攻めこそが群を抜いているのは、多くの人が領いてくれるのではないか。
城を落とすために莫大な土木工事を行い、ついに地形まで変えてしまうのだから、尋常ではない。しかし、その水攻めを仕掛けられながら、地形の有利さや籠城側の奮戦によって耐えてしまった城があるのをご存知だろうか。武蔵の忍城(埼玉県行田市)がそれである。
この忍城は、関東管領・山内上杉氏に仕える成田親泰が、この地域を支配した武将を攻め滅ぼして築城したのが始まりといわれている。
忍城は荒川と利根川が氾濫を繰り返した結果として自然に生まれた忍沼という巨大な湖沼地帯の只中にあり、城とその城下町はその中に浮かぶ島のような場所にあった。いわゆる「浮島」と呼ばれるタイプの城だったわけだ。
もちろん川や沼は天然の防壁であったし、城自体も土塁・池沼・深田によって区分けされた複雑な構造を有して、非常に守りやすい城であった。そのため、「関東七名城」のひとつに数えられている。
戦国時代を通して成田氏が城主であり、上杉氏と手を組んでたびたび北条氏と戦ったが、やがて北条氏の傘下に下ることとなる。豊臣秀吉によって北条氏が攻め滅ぼされると、この地は徳川氏の領有となり、関東の要所のひとつとして江戸時代を通じて譜代・親藩の大名が入った。そして、廃藩置県後に取り壊されている。
忍城をめぐる戦いで有名なのは、豊臣軍が北条氏を「踏み潰し」た小田原征伐の際のものである。これこそ、先述した「水攻めに耐えた城」のエピソードだ。ここでもまた、活躍したのは女性であった。
小田原征伐が行われた時、当時の城主・成田氏長は主家である北条氏の本拠地、小田原城救援のため城を留守にしていた。残されていたのは氏長の夫人およびわずかな武将と兵に過ぎなかったのだが、豊臣軍はこの城を見逃してはくれなかった。長囲にあたってはまず周囲の支城を落として本城を孤立させるのが常道であったから、これは仕方がない。
しかし、忍城側も易々と攻め落とされようとはしなかった。氏長夫人が実質的な城主として防衛の指揮を執ることになったのである――そして、彼女はまさに「女傑」という言葉が相応しい傑物であった。
氏長夫人はまず兵糧を集め、城下の人々を城に入れて籠城する構えをとった。城内に民衆を追い込んで兵糧の減る速度を速めるのは攻城側の常套手段だが、氏長夫人はあえて彼らを城に入れ、防衛のための兵士として戦わせたらしい。しかも、戦力にならない女子供には太鼓を叩かせ、あるいは旗を持たせて「城内には大軍がいるぞ」とアピールさせたというから驚きだ。
この奮闘がものをいった。そもそも周囲を沼に囲まれた忍城の守りは堅い。その上でもしかしたら「不正規の兵を率いる不正規の指揮官」という構図が「俺たちにだってできるんだ、武士なんかに負けないんだ」とばかりに籠城側の士気を高めたのかもしれない。
ともかく、忍城は豊臣の大軍を前に小揺るぎもしなかったのだ。
これに慌てたのが攻城側の指揮官である三成だ。
もともと彼は武将というより行政官僚として名を馳せた人物であり、戦いには不慣れだったと考えられている。それだけに武功が欲しかったのだろう、「なんとしても忍城を落とさなければ」と考えたはずだ。その結果、彼が思いついた作戦こそ水攻めであった。前述したように忍城は沼地の上に浮かぶ城であり、水浸しにするのはたやすいことだ、と考えたのだろう。
ところが、これがうまくいかない。城の周りに堤防を築いてはみたものの、折からの大雨が祟って決壊。流れ出た濁流は城側ではなく豊臣軍の側に押し寄せ、多くの兵が水死する大失態となってしまった。
実のところ、この堤防工事には城方の人間が多数紛れ込んで、報酬として得た兵糧を城内に持ち込んでいた。これを考えると、堤防の都合のいい決壊もまた彼らの仕業である、という説を採るのが自然だろう。城内には周辺の農民たちも入っていたのだから、このような土木工事に慣れた彼らがその気になれば、堤防の一部を意図的に弱く作り、決壊するように仕立てるのは難しくなかったはずだ。
水攻めが失敗に終わったため、豊臣軍は改めて武力で城を攻めようとしたが、堤防の決壊によりむしろ攻めるのが難しくなっていた。水浸しではなかなか前に進めず、そこを攻撃されればバタバタと倒れていくしかなかったのだろう。
しかも、ここでひとりの若武者――いや、女武者が活躍する。
氏長の娘・甲斐姫(氏長夫人の前の夫人の娘)であった。若干19歳ながら武勇に優れていた彼女は、200騎ばかりというわずかな兵を引き連れ、赤い陣羽織を身にまとって颯爽と出陣すると、豊臣軍の只中に飛び込んで縦横無尽に刀を振るい、多くの敵を討ち取ってしまったのだ。
この甲斐姫、のちに別の戦いにおいて氏長夫人が殺害された際にその仇を立派にとり、その話を聞いて彼女の美貌と武勇にほれ込んだ豊臣秀吉が、わざわざ愛妾に望んだほどの女性である。
このように氏長夫人に甲斐姫、臨時で城に入った庶民たちと、武士以外の人々の力も総動員して忍城は持ちこたえた。
ところが、そうこうしているうちに本城である小田原城が落とされてしまったので、戻ってきた城主・氏長から降伏を命じられることとなった。この時、氏長夫人は「小田原城が落ちた」などという話を信じなかったので、氏長がわざわざ説得しなければいけなかった。
なんだか間抜けな構図ではあるが、嘘の知らせの可能性を考えたのかもしれない。結局、忍城は開城したものの、その活躍によって「忍の浮城」の名を世に知らしめることとなった。その背景に、このような氏長夫人の注意深い賢明さがあったことは、間違いない。