鉢形城は埼玉県大里郡にあり、古く平安末から鎌倉初期に造られたともいわれる。資料で確かにわかるのは1473年(文明5年)から76年にかけて長尾景春が築いたものだ。景春が築いたとすれば、鉢形城は復讐のために造られたと言えるかもしれない。
長尾氏は、関東管領となっていた上杉氏の家中で頭角を現し、山内上杉家の家宰となっていた。家宰は主人に代わり、家の管理をする役職だ。景春は父・景信から家宰職を受け継ぐはずと思っていたが、主君である山内上杉顕定は景信の弟・忠景を家宰に任じた。この理由は、若い顕定が、若い景春よりも熟練の忠景を頼ったという説など様々存在している。
いずれにしても、家宰になれなかった景春は主君に反旗を翻し、武蔵国鉢形城に入り、関東公方・足利成氏と協力することになった。関東公方は「鎌倉公方」とも呼ばれ、室町幕府の東国支配のために鎌倉に置かれた鎌倉府の長官を指す。元々、関東公方の補佐をするのが関東管領であったが立場は逆転。成氏は権力を取り戻すために上杉氏(山内、扇谷)と対立をしていた。
その2人と戦うことになったのは、太田道灌という人物であった。彼は扇谷上杉定正の家宰で、知将としても名高い人物である。
景春は道灌が不在の時を狙って挙兵。それが1476年(文明8年)の6月のことであった。上杉氏の本営は五十子(現在の埼玉県本庄市)と、鉢形城とは目と鼻の先である。しかし、体制が整わない景春は上杉氏との衝突を避け、補給線を狙った。自軍の物資を貯えつつ、相手を追い詰めていったのである。
その後、道灌は江戸に戻ったが、すぐには行動しなかった。彼はこの戦いを勢力拡大に利用するつもりで、定正の本拠粕屋館、防衛線としていた江戸城と河越城(埼玉県川越市)を結ぶ『>』の字の連絡路を保ち、身動きを取りやすくすることが一番と考えていた。その頃、上杉軍は五十子の本営を保つのも困難となり、上野まで撤退している。
優位に立った景春は道灌の思惑を読み取り、連絡路の各所を攻撃することで、兵の集中を防ぎ、不本意な戦いをさせる策に出た。江古田・沼袋、石神井城などで両者は戦闘を続け、景春が優位を保っていた。一方の道灌は連絡路を確保して、江戸を離れる準備をしていた。
道灌が江戸を離れ、上野の上杉主力と合流すると、本営だった五十子を奪取する。景春を鉢形城に追い詰めようとするが、成氏軍の妨害にあってそれはかなわず、膠着状態が続いた。それを打開するため、道灌は睨みあっていた上杉氏と成氏の和睦を成立させた。孤立した景春は幾度かの戦いで戦力を削られ、ついに1480年(文明12年)降服。4年に及んだ長尾景春の乱はこうして終息した。