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掛川城 今川氏の終焉をむかえた城

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掛川城の築城年代には諸説あるが、明応・文亀(1492〜1504年)頃に駿河守護・今川義忠の重臣である朝比奈泰煕が築城したというのが有力とされる。城は竜頭山に築かれた平山城で、東には逆川が流れる要害の地にあった。

時代が流れ、掛川城主は泰煕の孫・朝比奈泰朝となっていた。
彼の一族が仕える今川氏も今川氏真に代替わりしていた。氏真の父である今川義元は1560年(永禄3年)に起きた「桶狭間の戦い」で尾張の織田信長に敗れて討死している。
若くして嫡男の氏真が跡を継いだ。が、前途多難であった。1562年(永禄5年)には、それまで今川氏に仕えていた三河の松平元康(徳川家康)が織田氏の力を借りて独立を図った。氏真はこれを阻止しようとしたが失敗に終わっている。
やがて三河は松平氏が治めるようになった。

さらに氏真は人心掌握をうまくやれず、家臣たちは今川家を離れ、他の大名に臣従している。
この状況を知った武田信玄は氏真の父・義元と結んだ同盟を破棄。1568年(永禄11年)12月6日に徳川家康と結んで駿河へと侵攻をはじめた。その日に大宮城を攻撃。12日には今川氏の重臣・朝比奈信置、葛山氏元らが調略によって武田氏に味方する事態となった。

翌日、氏真は駿府を捨てて、朝比奈泰朝がいる掛川城へと逃げ込んだ。
掛川に至るルートは解明されていないが、氏真夫人である蔵春院が輿に乗ることもできず、彼女の父・北条氏康が信玄に激怒したと伝わる。それほど氏真たちにゆとりはなかったのかもしれない。
泰朝を頼って掛川城に逃げ込むと、遠江侵攻を進めていた家康が掛川城を包囲し、城下に火を放って攻撃をはじめた。しかし、年が明けても落城しない。家康は総攻撃に打って出た。南の松尾曲輪や南東の大手を落とし、城内は籠城によって耐えるしかない状況だった。

その間、氏康が家康との交渉を進めており、1569年(永禄12年)の5月、氏真の助命を条件に開城されて戦いは終わった。
以後、氏真は北条氏の庇護下に入り、領国を取り戻そうとしたが叶わず、戦国大名としての今川氏は彼の代で終わりを迎えた。

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