田辺城は現在の京都府舞鶴市にあった平城で、1580年(天正8年)に入封した細川幽斎によって築城された。東の伊佐津川と西の高野川に挟まれ、近くの峠から見ると鶴が舞っているように見えることから舞鶴城という別名もある。
この城にまつわるエピソードとして、幽斎の子・細川忠興とその妻ガラシャ夫人の話が有名だ。このエピソードは関ヶ原の合戦が起きる少し前のことになる。
豊臣秀吉が亡くなった豊臣政権では、徳川家康が遺命を無視することが多くなり、秀吉の忠臣・石田三成らとの間に軋轢が生じていた。
家康が上洛命令に応じない上杉景勝討伐のために大坂を発って会津を目指すと、佐和山にいた石田三成が挙兵し、両者は東軍西軍に分かれて関ヶ原で雌雄を決することとなる。
その決戦の少し前、西軍・石田三成は東軍の家康に味方した武将たちの妻子を人質にとり、東軍の動きを鈍らせようと画策した。その妻子の中にガラシャ夫人がいたが、彼女は夫の邪魔をしてはならないと自ら命を絶っている。
作戦の失敗による怒りもあったのか、西軍は東軍に味方した田辺城主・細川忠興の攻撃を行っている。
戦略的には、豊臣恩顧の大名でありながら家康に味方し、京都にいたため家康との決戦の前に背後の憂いを消しておきたいという考えからだったと言われる。そのため田辺城を攻めるのに1万5千ほどの大軍で取り囲んだ。
ところが、忠興自身は城にはおらず家康に従軍していた。城では幽斎が留守居を務めていた。城内には500名ほどの兵しか残っていなかった。
ここでクローズアップするのは、細川氏を攻撃した側の人間たちだ。
彼らの中にも不幸に見舞われた人間がいる。それが但馬竹田城主・赤松広通である。彼は播磨龍野城主・赤松政秀の子として生まれたが、織田信長の播磨攻めで城を失った。その後、豊臣秀吉に仕えて四国征伐の論功行賞として竹田城を与えられている。豊臣恩顧の大名であり、西軍に与していた。
大軍で囲み勝負はすぐに終わると思われたが、城内の幽斎は粘った。その甲斐あって西軍を丹後に引きつけ、関ヶ原本戦への参戦を防ぐことができた。籠城している間に本戦は東軍の勝利に終わり、西軍は田辺城の包囲を解いた。
広通は親交があった亀井茲矩の説得で東軍となり、西軍・宮部長房の因幡鳥取城攻略に加わった。この時、城下を焼いたのだが、後日それを家康に咎められ切腹を申し渡された。当時は東軍西軍どちらが優勢なのかはわからず、少しでも功績を残そうと必死だったのだろう。