湯築城は建武年間(1334〜1338年)に豪族・河野通盛によって築かれた城で、現在の愛媛県松山市道後公園にある。それ以後、代々河野氏の居城となっていた。
戦国大名・河野氏の最後の当主となったのは河野通直であった。
先代の当主・河野通宣は嗣子なく病となったため、通宣の弟・通吉の子息である通直を養子とした。相続した1568年(永禄11年)、通直は5歳であったため、父である通吉が後見人として補佐している。
一度目の危機は天正前期の長宗我部氏による四国制服によるものだった。
地蔵獄城主・大野直之が長宗我部氏らと通じて乱を起こした。これを脅威に感じた河野氏は毛利氏に助けを求め、援軍を得て攻撃している。長宗我部氏は直之を救おうとしたが失敗し、直之は戦死するに至った。
二度目の危機は1585年(天正13年)の羽柴秀吉による四国征伐だ。
秀吉は信長の後継者として勢力を広げ、四国で権勢を振るう長宗我部氏を止めるため討伐に踏み切ったのである。秀吉は和睦を済ませていた毛利氏に出兵を要請し、当主・毛利輝元の家臣である小早川隆景が兵を出すこととなった。
秀吉軍は10万を越える大軍で今張浦(愛媛県今治市)に上陸し、長宗我部氏に味方する城を次々に落城させていった。
多くは秀吉に降服したが、抵抗して全滅したり、自刃して果てる者も中にはいた。秀吉軍が湯築城に迫ると、攻防戦を繰り広げた。やがて隆景は降服を勧め、大勢を察した通直はその申し出を受け入れて秀吉に降伏している。
その後、伊予には隆景が封じられ、通直は領地を失ってしまう。
彼の妻が毛利元就の孫であったため、妻の実家を頼り安芸国竹原に移住することとなった。そのとき彼に従った譜代家臣やその一族を含めた50人余りが随行し、二度の危機を共にした主とともに生活した。