天下統一まであと一歩と迫った織田信長が倒れた後、各地で大名同士の勢力争いが起きた。今回紹介する小諸城は「神流川の戦い」が関係している。この戦いで織田氏の重臣・滝川一益と北条氏がぶつかり、敗北した滝川陣営が逃げたのが小諸城なのだ。その城には一益の家臣・道家正栄が城代として入っていた。
元々小諸城の周辺は小笠原氏の一族・大井氏が治め、大井光忠によって鍋蓋城が築かれた。後に武田信玄がこの地を支配すると、東信濃の拠点となり小諸城は鍋蓋城を取り込むように、大城郭に改められた。しかし、信長の攻撃によって、1582年(天正10年)の3月に武田氏は滅亡。空いた領地から、上野一国、信濃国佐久・小県郡が信長から一益に与えられたとされる。
一益は箕輪城(群馬県高崎市)に在城、しばらくすると厩橋城(群馬県前橋市)に居を移している。一益は国人たちに知行安堵を認める代わりに人質を求め、多くの国人がこれに従い、織田氏の配下となっていった。ただ、関東の戦国大名・北条氏の思惑はこれとは違うものだった。信長と誼を通じ、織田家と姻戚関係を結んで、関東を織田家の分国としたいという野望があったようだ。一益の入国はそれを拒否するものであるが、誼を通じているため一益を無碍にもできないというジレンマを抱えていた。
そのような状況で「本能寺の変」が起こった。この時のことは、当時を伝える『滝川一益事書』という資料では、一益が国人に信長の死を包み隠さず伝えたとあるが、実際には秘匿されていたそうだ。それでも、北条氏はその一報をつかんでおり、一益を油断させるために、自分たちに敵意がないこと、何かあれば相談してくださいと手紙を送っている。これを受け取った一益は謀だと考えて、返事はしなかった。北条氏との一戦が避けられないと悟り、評議を開いて北条氏との戦を協議した。
一益と北条氏は金窪(埼玉県児玉郡上里町金久保)で戦っている。合戦の主戦場が神流川の河原であったため、「神流川の戦い」と呼ばれる。
初めに起きた大きな衝突は1582年(天正10年)の6月18日に、金窪や本庄の原(埼玉県本庄市)でのものだ。合戦は一益の勝利に終わり、北条方の300余りが討ちとられた。翌19日の合戦では北条方が滝川勢を切り崩し、敗走させるに至った。敗走した一益は箕輪城まで逃げ、人質を伴って小諸城に入った。
小諸城には5日ほど滞在したといわれ、本領伊勢に帰還するために、領地の通行を諸将に願いでていた。27日に小諸城を経ち、人質は一益の安全が確保されてから解放された。一益らが伊勢に着いたのは7月1日で、信長の死後の政治体制を決めた、同年6月27日の清州会議にも出席できていない。重臣であるはずの一益の影響力は小さくなってしまった。