先週の回で城を焼かれ、一族を失い、光秀はついに美濃を追われることになった。ここから彼の第2の人生が始まるわけだが、そこで重要な役を演じることになるひとりが朝倉義景だ。
朝倉氏は越前国の武士で、「応仁の乱」に乗じて斯波氏を追い落として大きな勢力を獲得した。早い段階から分国法を制定したこと、戦国乱世においても室町幕府との結びつきが深かったことなどが知られている。当主ではないが朝倉宗滴は名将として知られ、「大将というのは犬と言われようと、畜生と罵られようとも、勝つことが大事なのだ」と語ったーーという話が有名だ。また、宗滴は死ぬ前に織田信長を評価する言葉を残したともいう。
さて、義景である。戦国朝倉家五代の末である義景は、先述の宗滴の助けを借りて主に隣国・加賀一向宗と戦う一方で、幕府との関係も持ち続けた。そこに京から逃れてきて味方をするよう求めたのがこの時死んだばかりの将軍・足利義輝の弟覚慶(のちの義昭)であった。
義景は義昭の口添えもあって一向宗との和睦に成功するが、彼の望みである上京・出兵には色よい返事をしなかった。愛する子供を失ったばかりで気落ちしていたのだともいうが、この頃すでに名将・宗滴が死んでいたのも原因だったかもしれない。
ともあれ義景は動かず、失望した義昭は尾張の織田信長を頼って上洛、そして将軍への就任を果たした。この時に重要な役割を果たしたのが、朝倉家に仕えていた明智光秀であったーーというのだが、この話はちょっと怪しい。
越前時代の光秀については、「10年を過ごしたのち義昭に仕えた」とか、「義景に仕えつつも信長に誘われ、そうこうするうちに陰口を叩かれ暇を出されたので信長の元へ向かい、織田家の録を与えられて義昭を迎えに出た」などという話もあるが、どれも信ぴょう性に乏しい。
話を義景に戻そう。彼は結局義昭を奉じて上洛することはなかったわけだが、信長と義昭の関係が悪化する中で再び出番がやってくる。
信長はライバルとなりうる義景を打倒するべく兵を挙げるが、その背後を義兄弟・浅井長政につかれて辛くも生き延びる。信長が体制を整えて反撃を試みた「姉川の戦い」には、義景も大軍を送り込んで長政を助けるも結局負けてしまう。
しかし信長もこの戦いで浅井・朝倉を倒すことはできず、両者は信長包囲網の一翼を担って長年にわたり信長と戦う。
戦況は次第に信長有利と移り、ついに義景は本拠地・一乗谷の朝倉館に攻め込まれ、滅びてしまうのだった……。