籠臣の出世と末路
譜代大名の出世にはさまざまなやり方がある。その中には、将軍やそれに準ずる大権力者に取り立ててもらい、一足飛びに出世するという裏技的なケースもあった。権力者の寵愛を受ける「寵臣」となって、家格や石高を超えた部分で出世するわけだ。
柳沢吉保
5代将軍・綱吉に仕えた柳沢吉保こそは寵臣の代表であろう。
吉保は、綱吉が4代将軍・家綱の養子になる前から仕えていた家臣だ。このように徳川将軍から見た、諸大名や旗本の家臣を「陪臣」という。
陪臣は直参とは違って、主君はあくまで使える家の主(吉保にとっては綱吉)、すなわち直参が将軍直属の家来なら、陪臣は将軍の家来の家来という位置づけとなる。そのぶん、家格も一段低い。家中では実力者であっても、幕政に関与することはまずありえなかった。
しかし、吉保の場合、綱吉が将軍になったことで思いがけず直参の立場を手に入れることになる。さらに綱吉が吉保を気に入って重用したため、またたく間に幕閣の頂点へと上り詰めていった。
綱吉の小姓でしかなかった吉保は、あれよあれよという間に将軍と老中の間を取り持つ側用人に抜擢される。当初はもう2人、吉保より格上の側用人がいたのだが、どちらも辞職してしまった結果、吉保が最高位に立つことになった。
そうして出世の道を極めた吉保は、武蔵国川越藩の藩主となる。さらに老中より高い大老格の家格を与えられ、松平の家号を使用することまで許された。
それだけにとどまらず、綱吉が甥の家宣を次期将軍に決めた際には、家宣の旧領を与えられて甲斐国甲府藩の藩主にもなった。甲府は代々、徳川一門にしか所領にすることを認められなかった土地である。
綱吉の死後、吉保は幕政の中心から外されるものの、家や所領はそのまま安堵された(彼の死後、1724年(享保9年)に大和国郡山藩15万1千2百石へ転封されたものの、立場は決して悪いものではなかったようだ)。やっかみを受けやすい寵臣からの出世パターンを歩んだにしては、穏便な終わり方をむかえている、といえよう。
牧野成貞
牧野成貞は柳沢吉保と同じく、5代将軍・綱吉に取り立てられた陪臣である。綱吉のもとでは家老として仕えていた。
綱吉が将軍になった後、大老として幕政を牛耳っていた堀田正俊が江戸城内で殺害されるという大事件が起こる。これにより、将軍の部屋と老中の部屋が安全上の観点から遠ざけられてしまい、両者の間を取り持つ役職が必要になった。
こうして置かれたのが「側用人」であり、成貞はその役職に最初に就いた人物だった。当初、1万3千石だった石高は加増を重ね、最終的に7万3千石にまで至っている。成貞の死後、牧野家は三河国吉田藩8万石、日向国延岡藩8万石、常陸国笠間藩8万石と転封している。。
間部詮房
間部詮房は6代将軍・家宣と7代将軍・家継のもとで側用人を勤めた人物だ。家宣は綱吉の甥であり、綱吉の養子になることで将軍家に入ることになった。詮房は家宣に仕える陪臣だったのだが、ここで直参となる。その後、家宣に取り立てられて側用人になるのは柳沢吉保とまったく同じパターンだ。
最終的に詮房は老中次席の家格と、上野国高崎藩5万石の大名の座を手に入れる。ちなみに彼の父親は猿楽師(能役者とも)で、武士ですらなかった。それがここまで上り詰めたのだから、空前の大出世と言える。
しかし、詮房の栄華は長く続かなかった。家宣の死後、7代将軍には子の家継が3歳で擁立されたが、なんと5年後、家継はわずか8歳という若さで亡くなってしまうのである。
当然、家継に子がいるわけもなく、8代将軍には御三家のひとつ、紀伊徳川家から吉宗が選ばれた。詮房は後ろ盾を失い、またたく間に失脚する。間部家は越後国村上藩5万石、越前国鯖江藩5万石と次々に転封され、石高こそ変わらないものの、「城主」から「無城」へと家格を落とされてしまった。
なお、詮房は家宣の学問の師であった儒学者・新井白石と協力して幕政を動かしていた。さまざまな改革が行なわれたこの治世は「正徳の治」として後世まで語り継がれている。
加納久通・有馬氏倫
加納久通と有馬氏倫は8代将軍・吉宗の紀伊藩時代からの側近である。吉宗は幕政を食い物にしていた側用人を廃止し、御側御用取次という新しい役職を置いた。それに就いたのが久通と氏倫だ。もっとも、御側御用取次の役目は将軍と老中の間を取り持つことで、実質的には側用人と変わらなかったようである。
2人はともに陪臣から直参となり、久通は伊勢国東阿倉川(八田藩)1万石を、氏倫は伊勢国西条藩1万石をそれぞれ与えられている。いずれの家も明治維新まで存続した。
ただ、吉宗が側近に権勢を振るわせることを危ぶんだためか、両者はそれ以上の加増を受けることはなかった。
大岡忠相
大岡忠相は直参の旗本である。もとは山田奉行(遠国奉行のひとつ。伊勢神宮の管理を担当した)に就いていたが、8代将軍・吉宗に抜擢されて町奉行に就任する。その後、吉宗の腹心として享保の改革をさまざまな面から支えた人物だ。
町奉行は「都知事、警視総監、消防総監の役に加えて裁判までつかさどる」要職だが、忠相の家格からするとおかしいものではない。しかし、長年の功績を認められた忠相は晩年、旗本でありながら大名役である寺社奉行、その後には奏者番にまで任命されている。6000石程度だった石高は加増によって1万石に達し、ついにその家格は大名となったのである。これは当時としても異例の大出世だった。
出世人が露骨なやっかみにあうのは世の常だ。あるとき、控室に入ろうとした忠相は、本来自分のほうが格上のはずの奏者番に「ここは奏者番しか入れない部屋だ」と追い返されてしまう。しかし寺社奉行と奏者番は兼務するのが慣習だったため、寺社奉行である忠相は奏者番用の控室以外では休めず、江戸城内をさまようはめになった。この話を聞いた吉宗は、忠相専用の部屋を特別に設けた、という。
その子孫は加増されることなく、三河国西大平藩1万石の定府大名として明治に至った。
大岡忠光
もとは300石程度の旗本にすぎなかったが、9代将軍・家重の小姓となって出世街道を突き進むことになった人物。大岡忠相とはともに大岡忠吉の子孫にあたる関係で親交もあった。
若年寄から側用人となり、武蔵国岩槻藩2万石の大名にまで成り上がってしまった彼の出世の秘訣は「家重の通訳」であった。家重は名君との名が高い吉宗の子にもかかわらず、自らの意思を明瞭な言葉で他者に伝えることができなかったのである。これを唯一理解して「翻訳」できたのが、少年の頃から付き従っていた忠光とあれば、彼の重要性は言うまでもない。
側用人や御側御用取次が大きな力を誇ったのと同じ意味で、忠光は「将軍の言葉を伝えるただ1人の人物」として絶大な権勢を誇るに至った、というわけである。
彼の末裔も武蔵国岩槻藩2万石(のちに2万3千石)として大きな加増なく続いている。
田沼意次
田沼意次は紀伊藩に仕えていた陪臣の家の出だ。吉宗が将軍になったことで直参となり、吉宗の死後に頭角を現わした。
意次を取り立てたのは10代将軍・家治である。意次は家治の父で9代将軍の家重にも小姓として仕えていた。その結果、家治の代になると意次は側用人と老中を兼務して幕政を掌握し、遠江国相良藩5万7千石を治めるまでになったのだ。
意次は卓抜した経済感覚の持ち主で、それまであまり見向きのされなかった「金銭管理」を主軸に置いた政策を打ち出し、経済を発展させた。
しかし、同時に金銭重視の風潮が現われて賄賂が横行し、俗に言う「田沼時代」が訪れる。そんな風潮を嫌った人々から非難を受けるという悪循環にはまってしまった。
やがて、意次の子で若年寄の意知が暗殺され、意次の権勢も衰え始めた。決定的だったのは後ろ盾の将軍が亡くなり、毒殺の嫌疑が意次にかけられたことだ。反対派の攻撃にさらされた彼は老中を解任され、所領のうち4万7千石を取り上げられ、居邸もまた没収されてしまったのである。
その末裔は陸奥国下村藩1万石から、やがて遠江国相良藩1万石に復帰している。
脇坂安董
脇坂安董は11代将軍・家斉の時代の人で、播磨国龍野藩5万1千石を治める大名である。先祖は「賤ヶ岳の七本槍」に名を残した脇坂安治で、豊臣秀吉に仕えていた。その後、関ヶ原の戦いでは西軍に属していたが、東軍に寝返った。つまり、脇坂家はもともと外様大名だったのだ。
しかし、有力な譜代大名である堀田家と血縁関係を結んだことで、「願譜代」という立場ではあるものの、譜代大名と同じ扱いを受けるようになった。江戸城での殿席も、外様大名にあてがわれた柳間ではなく、譜代大名のための帝鑑間を使っている。脇坂家は龍野という西国につながる要所を所領とし、安董も奏者番から寺社奉行兼任と出世コースを歩んでいた。
そんな折、大奥で延命院事件と呼ばれるできごとが起こる。安産祈願を唱え、大奥や大名家の奥女中の間で信仰を集めていた延命院という寺の住職・日道(または日潤)が、奥女中たちと密通していたのだ。
話を聞きつけた安董は家臣の娘を密偵として忍び込ませ、日道の密通の証拠を見つけ出す。そして延命院に踏み込み、日道を捕えたのである。
その後、出石藩仙石家の御家騒動を解決するなど、安董の功績が認められ、西の丸老中に任命されて、さらには老中にもなる。このとき脇坂家も「願譜代」から晴れて譜代大名に変わった。
とはいえ、もとは外様大名だったのだから、安董の残した功績は大きい。彼は外様大名が老中になるという前例のないことをやってのけたのだ。
幕閣は譜代大名から任命されるという原則だったが、安董によって外様大名からも任命されるという先例ができたのである。