戦国時代ものエンタメで欠かせない要素の一つが、各大名や武将が自分の居場所を知らせるために用いた旗印だ。
織田信長といえば永楽通宝の旗印、武田信玄といえば風林火山の旗印、というあたりが有名だろう。そしてもうひとつ、よく知られているのが徳川家康の「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の旗印である。
これは浄土宗の考え方(思想)で、汚れた現世から離れたい、浄土へ生まれ変わりたい、という意味合いだとされる。では、どうして家康はこのような言葉を旗印として掲げるようになったのかをご存じだろうか。
じつは、この由来には二つの説がある。家康の菩提寺である大樹寺の住職・登誉天室(とうよ てんしつ)がルーツだというのは同じなのだが、その伝えるに至ったシチュエーションが大きく違うのだ。
ひとつは、大樹寺に伝わるとされる説だ。それによると、桶狭間の戦いの後、大高城から逃れて岡崎へやってきた家康はこの大樹寺にある松平氏の墓の前で切腹しようとした。しかし登誉は押し留め、「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗を渡し、仏教の教えを説いたのである。
家康も武将だから人を殺し、敵を攻撃するのが当然だが、それは一体何のためにするのか。それは最終的には万民のために、人々の苦しみを無くすためなのだ、というのである。家康は大いに感じ入り、以来「厭離穢土欣求浄土」の旗を掲げて戦場へ出るに至った、という。この説が有名なのだが、実はもうひとつ説がある。
それは『柳営秘鑑(りゅうえいひかん)』なる史料に書いてあるものだ。
こちらはいわゆる三河一向一揆の時の出来事であるという。これによると、登誉は一向一揆と戦う家康に自ら人々を率いて味方した、というのである。そして家康から貰った旗に「厭離穢土欣求浄土」と書いた。ここでの意味合いは「生を軽んじて死を幸いにする」ということであり、そもそもは一向一揆側が「進めば極楽、下がれば地獄」と言った意味のことを鎧に書いていたことに対抗するものであったらしいのだ。
どちらが本当であるかはわからない。
しかし、戦国乱世に生きるだけに、人を殺し、自分も殺されるかもしれないという状況は避けられない――そのことはどちらのエピソードにも共通しているといえよう。