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知ってる? 水野勝成

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ファンキーな戦国武将の筆頭格である水野勝成はぼくも大好きですが、なんと彼の魅力に取りつかれて水野勝成のウェブサイトを作ってしまった方がいます。
そんな水野勝成ラブなNishiさんに勝成との出会いと彼の破天荒で愛すべきエピソードの数々を存分に語っていただきましょう!

みなさんは、水野勝成(みずの かつなり)という武将をご存知でしょうか?
攻城団をご覧のみなさまなら当然ご存知かもしれませんが、自分は特に歴史に詳しいわけでもなく、地元の武将だというのにまったく知りませんでした。

そんな自分が水野勝成を知るようになったのは、もう何年も前、地元で教師をしていた友達が面白そうに「こんなすごい武将がいるのに、全然知られていないんだよ!」と教えてくれたことがきっかけです。

地元福山城の城主だった『水野勝成』は、
上水道の整備や全国初の藩札の発行など、良い面をさらっとしか紹介されていないけど、実は
・16歳の時、初陣なのに15も首をとった
・父に奉公構(ほうこうがまえ=業界出入り禁止)されたが、逃れた先の京都で大喧嘩や殺傷沙汰を起こした
・晩年も75歳で島原の乱に息子、孫と一緒に参戦した
など、他にもたくさんの破天荒エピソードがある!

こんな破天荒でやばい武将が地元にいたなんて……確かに、なんで誰も知らないんだ?

当時、WEBサイト制作のスクールに通っていた私は、卒業制作で作るWEBサイトのテーマを決めている最中でした。
テーマは自由だったので、ひとつこの水野勝成を広められるようなサイトを作ろうと思い、手探りでエピソードを集めていきました。
以下で紹介させていただきます。

※個人的に調査した結果をまとめたもので、100%の信憑性を保証できないこと、非歴史オタクが、自分が咀嚼しやすいように砕けた文章でまとめていることご了承ください。

水野勝成のプロフィール

  • 水野 勝成(みずの かつなり)
  • 1564年(永禄7年)生まれ
  • 刈谷(愛知県)出身
  • 家康のいとこ
  • 初代福山藩主

水野勝成のエピソードあれこれ

その1. 16歳の初陣で15の首級

この時の戦果であの信長から感状を与えられる。
普通は初陣で15も首級を上げるなんて無茶はしない。
今で言うとインターン中に大型案件を何本も受注する様なものである。
勝成、初っ端からエンジン全開だった。

その2. 二千VS一万という圧倒的手數な敵陣を撃退

1582年(天正10年)8月、天正壬午の乱のさなかに起きた黒駒合戦にて鳥居元忠、三宅康貞(みやけ やすさだ)と共に一万の北条勢に二千の兵で応戦する。
勝成はこの時、出陣を知らせず単独行動した元忠に抜け駆けだとキレて、結局自分が先陣を切って突入
元忠「解せぬ……」。
しかしその結果、約300を討ち取って撃退したという。
このとき勝成はまだ10代である。

その3. 兜なしでも一番首

小牧・長久手の戦いに家康陣営で参戦した際、結膜炎の眼痛で兜を付けていないのを父・忠重(ただしげ)に叱責され、反発。
「兜がなくて死んでも時の運。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」とその場で暇乞い(いとまごい)して、そのまま敵陣に突入、そのまま一番首を取って家康に持参し、以降家康の元で行動することに。
兜なしで戦に参加するだけでなく、さらには有言実行して一番首まで獲ってくる……狂気の沙汰である。

その4. 大アウトロー時代の始まり

父の部下に悪行をチクられたのに逆ギレして、斬り捨てる
父・忠重は激怒して勝成を勘当、以降どの藩主の元にも仕えられぬよう、奉公構(業界出入り禁止)のお触れを出した。
働けなくなった勝成はホームレスになり各地を転々とした果てに京都へ。
そして京の町に出ては多くの無頼の徒と交わり、大喧嘩をして、また斬り捨てる
この猛将を野に解き放ってはいけなかったのだ……。

その5. 700万石を蹴る

織田信雄の肝煎りで秀吉の陣営に。四国征伐の成果を認められ、秀吉から700石の知行を授かるが、なぜか逃亡。逆に秀吉から刺客を放たれたという。
ホームレスから一転、今で言うと年商5千万円ほどのセレブになれたのに……
金も名誉も、勝成を縛れるものなどなかったのである。

その6. 戦国最強のフリーランス

今まで信長、家康、秀吉と名だたる武将の元で働いてきた勝成だが、職場を九州に移してからも、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、そうそうたる武将のもとへ仕官
一番首プレーヤーとして怒涛の活躍をする。しかし、いずれの職場も定着することなく、輝かしい戦績を残しては、間も無く逃亡を繰り返す
さすらいのスーパーフリーランスの名をほしいままにする。

その7. 虚無僧? 姫谷焼きの器職人? 謎の経歴

戦国フリーランスとしての1000石のセレブ生活を蹴ってふたたび放浪の生活へ戻った勝成。
この時代の逸話も多く、虚無僧になった、姫谷焼の器職人になった、など様々な真偽不明の伝聞が残されている。
最終的に備中国成羽(なりわ)の国人・三村親成(みむら ちかしげ)の食客となるが、月見会の席で茶坊主の処置を無礼なりとして斬り、三度の逃亡
しかし、翌年戻ってきては世話役の娘に手を付け、子供をもうける。
オンもオフも自由すぎるよ、勝成。

その8. 父との和解と別れ、地元へ帰る

長い放浪生活の末、15年ぶりに父、忠重と和解。
しかし、間も無く忠重が殺害されてしまい、刈谷藩主を相続することに。

その9. 関ヶ原の戦いで放浪時代の人脈を活かす

水野家当主となった勝成は家康の元で、勇んで関ヶ原の戦いへ。
本戦への参加を願いでるが許されず、大垣城への抑えとされた。
しょうがないので大垣城を攻めることにした勝成は、放浪時代の人脈を生かして敵を寝返らせることに成功
その後も父の仇を含め数々の首級をあげる。この時の功績により日向守の官位を授かったが、日向守といえば裏切り者明智光秀。
皆から避けられていた官位にも関わらず、勝成は喜んで日向守を名乗った。
以後はその勇猛さから「鬼日向」という仇名で呼ばれることに。

その10. 最高責任者でも一番乗りしたい!!

大坂夏の陣は軍の最高責任者として、息子とともに参加。
勝成の性格を知る家康からは「もう責任者なんだから、一番乗りとかそういうのやめろよ」と釘を刺されるも、それを壮大な前振りだととった勝成は、やっぱり自ら先陣に立ち、大坂城に一番乗りを果たしてしまう
このとき敵方に鬼日向の異名が知られていたようで、勝成の馬印を見るや退却していったという逸話も。
ちなみに当時勝成は51歳。もう、無茶をするのもほどほどに……。

その11. ホトトギスも待てる家康がおこ

命令違反した勝成に家康は、大和郡山6万石への加増転封を命ずる。
正直言って20〜30万石くらい貰えるだろうと期待していた勝成は憤慨したというが、家康はもっと怒っていたであろう

その12. 破天荒が一転、福山で名君へ

家康が亡くなった後、やっと福山10万石を与えられた勝成。
そこから、放浪時代に培った人脈、知識、経験を大いに活かして、素晴らしい治世を始めた
その功績は、城下町の建設、産業の育成や全国初ともいわれる藩札の発行、全国2位の規模の上水道の敷設、荒らされていた神社仏閣の修理・再建等など数え切れないほど。
戦場での破天荒具合からは想像もできない名君ぶりに、周囲も驚いたとかなんとか。

その13. 孫と出陣する75歳

島原の乱に九州の大名以外で唯一の参陣。勝成(75歳)は、息子、孫とともになんと三世代で戦へ
水野軍は最後列にいたがやっぱり本丸一番乗りを争った。
何歳になっても、一番乗りはやめられない

その14.隠居後も変わらぬ福山への愛

息子に家督を譲り、ようやく引退。
しかし、隠居料の1万石も領内の投資に注ぎ込むなど、隠居後も福山のために貢献した。勝成の政策により、福山藩は最終的に10万石から15万石へと大きく発展した。
 87歳の時でも鉄砲を的に的中させ、周囲を驚かせたという勝成。健康オタクと言われた家康でさえ75歳で死去した時代に、88歳まで長生きし、福山城下の賢忠寺に葬られる。
命知らずな生涯にも関わらず、長寿の末の大往生だった。

まとめ

調べてみると、想像の斜め上をいくエピソードがたくさん出てきて驚きました。
ドラマの主人公にしても盛り上がるのでは、という猛烈でアクの強い人物だったようです。

そういえば、水野勝成が城主を務めた福山城は2022年、築城400年ということで綺麗に改修された姿がお披露目され、色々とイベントも行われていましたね。

この機会に、少しでも水野勝成の全国的知名度が上がるとうれしいです。

当時実際に作成したサイトはこちらです。

katsunari.main.jp

kojodan.jp

kojodan.jp

kojodan.jp

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