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【家康の謎】大高城の兵糧入れってそんなに大変だったの?

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榎本秋の家康の謎

「大高城の兵糧入れ」とは、桶狭間の戦いに関連して家康(当時は元康)がこなしたとされる任務のことだ。
これは非常に危険な任務であったとされ、神君・家康の武勲史における輝かしい最初の1ページとして長く親しまれてきた。
なお、この出来事は桶狭間の戦いの前年にあたる1559年(永禄2年)であったとする説もあるが、同年であったとするほうが一般的であるようだ。

桶狭間の戦いに先立つ今川義元による一連の尾張圧迫において、大高城は熱田にも近い重要な前線基地と見なされていた。逆に言えば敵(この場合は織田氏)からの激しい攻撃にさらされる危険な場所でもあった、ということだ。
実際、大高城は敵方が築いた丸根砦・鷲巣砦に囲まれ、危険な状態になっていたのである。包囲されれば兵糧・物資の補給が困難になり、士気も下がり、ついには落城ということになりかねない。
ここに支援を送るのは今川方にとって急務であり、その役目を与えられたのが若き家康だった、というわけだ。

ここまでの説明で「そんなに大変だったの?」という疑問への回答はできたと思う。
敵方に包囲された城へ兵糧を運び込むのが簡単なはずがない。運び込む途中で見つかり、攻撃を受ければ、兵糧を運ぶ部隊(小荷駄)が重荷になってうまく戦えなくなる可能性が高いからだ。
しかし、家康はこの仕事を見事にこなしてみせた。丸根砦の敵兵が動かない隙をついて大高城へ兵糧を運び込んだのである。ちなみに、本多忠勝の初陣はこの戦いであるという。

家康と松平家臣団の活躍はまだ続く。もうひとつの任務として与えられていた丸根砦を落とすことについても成功し、さらに鷲津砦攻撃へも参加する八面六臂の働きぶりだった。
この武勲と身を挺しての貢献が、家康の命を救うことになる。家康は義元に命じられて大高城へ入り、兵を休ませることになったのだ。この時、戦いは今川方有利で展開しており、もう大高城は前線ではなくなっていた。
結果、家康は戦いの中心地から離れたまま、義元の死を聞くことになり、己の新しい運命と向き合うことになったのだった。

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