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【クーデターで読み解く日本史】裏切りで生き残ってきた一族のなれの果て――宝治合戦

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1247年(宝治元年) ○北条時頼・安達氏 ×三浦康村

ここまで相次いだ北条氏による有力御家人追い落としの争いの中で活躍したのが、有力御家人の三浦義村(みうら よしむら)であった。
和田合戦では和田氏を裏切って「友を食う三浦犬」と世人に罵られ、伊賀氏の変でもやはり事件の途中で方針転換をした彼を悪辣と評するのは簡単だ。しかし、幕府成立以来から活躍した有力御家人の多くが排除された中、北条氏と縁戚関係を結びつつ大いに繁栄したことは高く評価してしかるべきだろう。

ところが、そんな三浦氏も義村の死後、その子の三浦泰村(みうら やすむら)の代には苦しい立場に追い込まれる。
きっかけは1246年(寛元4年)に前将軍・藤原頼経(ふじわら の よりつね)が執権・北条氏の追い落としをたくらんで失敗し、京へ追放されてしまったことだった。実は泰村の弟・光村(みつむら)は頼経との関係が深く(陰謀に実際にかかわっていたとも)、頼経を鎌倉に呼び戻そうとしていたほどである。

このような関係から北条氏と三浦氏の関係は急速に悪化していく。
特に安達景盛(あだち かげもり=当時の執権・北条時頼の祖父)が三浦氏を激しく危険視し、三浦氏討伐の動きを加速させた。
そんな中、翌1247年(宝治元年)に時頼は三浦氏との和平を模索し、その旨を書状にして送るのだが、これを受けて景盛は強攻策を決断し、三浦氏を攻撃。時頼も和平路線を放棄してこれに追従したため、あくまで一御家人に過ぎない三浦氏は一族皆殺しにされ、滅亡したのである。

この頃まで、有力御家人たちの力はまだまだ強く、得宗家が中心にいながらも合議的政治の色彩が強かった。
しかし、この事件以後は執権による専制政治のスタイルが定着していくことになる。

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