1224年(貞応3年) ○北条政子 ×伊賀氏
1224年(貞応3年)、執権の北条義時が急死する。
これをきっかけに起きた事件は、先述の牧氏事件と非常に似た構造のものとなった。
義時の後妻・伊賀氏が兄で政所執事(政所の長官)の伊賀光宗(いが みつむね)と共謀し、娘婿の伊賀実雅(さねまさ)を将軍、実子の北条政村(ほうじょう まさむら)を執権にしようとしたのである。
つまり、幕政を伊賀一族で独占するつもりだったのだ。そもそも「義時が突然亡くなったのは伊賀氏が彼を毒殺したからだ」という説があり、それもまた計画の一部だったのかもしれない。
伊賀氏たちは有力御家人の三浦義村(みうら よしむら)を味方に引き込んで計画の実行をもくろんだのだが、これをまたしても北条政子がいち早く察知する。
政子としては義時の嫡子・泰時(やすとき)を執権に就かせようと考えていたのだから、こんな陰謀を許すはずがない。先手を打って「泰時こそが次代執権だ」と宣言した上、深夜密かに義村の元を訪れて彼を説得して、伊賀氏らの陰謀を完全に潰したのである。
こうして事態は沈静化し、伊賀氏らはそれぞれ配流処分を受けたが、この後も北条氏内部の権力抗争は続くことになるのだった。