1272年(文永9年) ○北条得宗家 ×北条時輔・北条氏名越流
いくつかの混乱・内紛はありつつも安定していた鎌倉幕府の執権政治は、鎌倉時代後期になってある出来事をきっかけに大いに揺らぐことになる。
中国の元王朝による二度の侵略――いわゆる「元寇」だ。この「元」は一時期ヨーロッパにまで進出したモンゴル帝国が分裂したものである。
皇帝フビライは1268年(文永5年)とその翌年の二度にわたって国交を求める使者を送り込んできたが、時の執権・北条時宗(ほうじょう ときむね)はこれに取り合わなかった。
当時の幕府は海外情勢に疎く、元の強大さを知らなかったことがその理由だったのでは、と考えられている。
それでも元の侵略が近づく中で幕府も九州に御家人を送り込んで防備を固めていくのだが、その渦中の1272年(文永9年)に事件が起きる。
鎌倉で評定衆の北条教時(ほうじょう のりとき)・時章(ときあき)兄弟(北条氏名越流(なごえりゅう))、京では時宗の異母兄弟である北条時輔(ほうじょう ときすけ)が、それぞれ突如として殺害されたのである。これは時宗の命令による誅殺であるとされ、「時輔および彼を支持する教時・時章兄弟が陰謀をたくらんでいたため」と説明されたが、後に「時章は無実」として彼の殺害にかかわったものたちも処刑されてしまった。
この事件の真相は、元の侵略という国難にあたって、執権および得宗家にとって政敵となりうる人々を排除し、北条一族の中での意思統一と、得宗家権力の強化を図ったものだとされる。
その後、天候に助けられたことや、元側の兵は高麗(朝鮮)や南宋といった征服地の出身者が多かったせいで士気が低かったこともあって、幕府は二度の元寇を退けることに成功する。
しかし、元寇で受けたダメージ、および二月騒動に代表されるような得宗権力の肥大化は、やがて鎌倉幕府が崩壊する原因にもなってしまうのだった。