969年(安和2年) ○藤原摂関家 ×源高明
冷泉天皇の御世の969年(安和2年)2月下旬、天皇を警護する左兵衛大尉の源連(みなもと の つらね)と天皇の補佐などをする中務少輔の橘繁延(たちばな の しげのぶ)に謀反の疑惑がかけられた。右大臣の藤原師尹(ふじわら の もろただ)らは国家への反乱だとして諸国の関所を警戒態勢に置く。
翌日、左大臣の源高明(みなもと の たかあきら)の左遷、4月には連と繁延の流罪が決定した。高明は娘婿で冷泉天皇の弟・為平親王を皇太子にしようと画策したという名目での処分であった。新たな左大臣は師尹が就任している。
ことのあらましは以上だが、この事件は師尹ら藤原摂関家の陰謀によって引き起こされたとされている。その目的はズバリ、高明の失脚だ。
次期天皇には藤原氏が、冷泉天皇と為平親王の弟・守平親王(のちの円融天皇)を立てていたが、それだけでは権威を獲得するには不十分だった。当時、冷泉天皇を補佐する関白には藤原実頼(ふじわら の さねより)が就いていたが、彼は天皇の外戚ではなく、また高齢でもあった。そうなると彼が官位から退くと政権でトップになるのは左大臣の高明である。それを阻止すべく高明を陥れたのだ。
本書でここまで扱ってきた事件からその他の事件まで、藤原氏は他勢力を排除するために様々なクーデターや政変、陰謀を仕掛けてきた。しかしこの事件の以後は目立った動きはなくなる。藤原摂関家の地位が確実なものとなり、対抗馬をわざわざ排除する必要がなくなったのである。
しかし、このことは政治的陰謀の嵐が収まったことを意味しない。
藤原摂関家の中、つまり兄弟や叔父甥の関係の中で、「誰が氏の長者(=藤原氏の第一人者)になるか」「誰が天皇に自分の娘を嫁がせ、生まれた子を天皇に据えるか」で骨肉の争いを繰り広げるようになるのである。そうした争いに最終的に勝利するのが「この世をば我世とぞ思ふ望月のかけたる事もなしと思へば」の歌で知られる藤原道長(ふじわら の みちなが)だが、彼の子の代には摂関政治も衰退を始め、新たな政治体制の時代へと移り変わっていくのだった。