記事執筆の背景、関係性の開示
今回の取材は沖縄県・一般財団法人沖縄観光コンベンションビューローがおこなっている沖縄本島を対象とした「旅行社・メディア等招聘事業」としておこないました。そのため伊丹空港から那覇空港までの往復航空券と島内の移動に使用したレンタカー代および沖縄での宿泊費(那覇市内に二泊)、さらに通常100円かかる「浦添グスク・ようどれ館」の入館料と「うらおそい歴史ガイド」のガイド料1500円も自己負担なしで取材させていただいたことを開示しておきます。浦添グスクは首里城の前の琉球王国の王都があった場所とされています。
1945年の沖縄戦で激戦地となり石積みの城壁は破壊され、また戦後復興の際にその石材も持ち出されたため、現在は城壁の一部が復元されているのみではありますが、「天日之子(太陽の子)」と呼ばれた英祖王が築いた大型グスクであり、またその王陵である「浦添ようどれ」を見ることで、琉球の歴史を学びたいと思います。
今回は「うらおそい歴史ガイド友の会」の親富祖(おやふそ)さんに案内していただきました。
まずは「浦添グスク・ようどれ館」を見学
最初にガイダンス施設である「浦添グスク・ようどれ館」を見学します。
館内には浦添市教育委員会が1982年(昭和57年)から1984年(昭和59年)におこなった発掘調査で見つかったものなどが展示されています。
入口近くにあるのが正殿跡と思われる場所で発見された、大きな高麗系鬼瓦です。
本土でよくみる鬼瓦とはちょっとちがう独特なデザインですね。
ちなみにこれは一部のみ現物で、全体を復元しています。
もともとはそのまま出土したそうなのですが、発見者が子どもだったこともあり、その価値をわからなかったので野球の練習でボールを当てる的にしていたらしく、割れてしまったとのこと。
もったいない話ですが、しょうがないですね(ぼくが見つけていたとしても子どもなら同じように破壊してたと思う)。
ほかにも出土した高麗系瓦や器類、武具などが展示されています。
勝連グスクの取材で教わったとおり、グスクの中で瓦が出土しているのは首里城、浦添グスク、勝連グスクの3つしかありませんので、今回でそのすべてを訪問したことになりますね。
浦添グスクが使われたふたつの時代
ここで年表を見てみましょう。
浦添グスクの使用年代はふたつの時期に限定されます。
築城は13世紀末、廃城は1609年の薩摩侵入ですが、その間ずっと使われたわけではなく空白期間があるということです。
築城は英祖王か
ひとつは英祖王の築城から琉球を統一した尚巴志によって滅ぼされるまでの期間です。
浦添グスクの城主として実在が確実視されているのは察度王です(明の書物にも記載されているのがその理由)。しかし発掘調査の結果、それより以前、13世紀末の咸淳年間(1265年〜1274年)の遺構が見つかっていることから、築城はこの頃だと考えられています。
つまり察度王の前に誰かがいたことを示しており、現在のところそれは英祖王だと推定されています。
英祖王(または13世紀末にこの地域を支配していた豪族)が浦添グスクを築城し、察度王の時代も浦添グスクは中山勢力の拠点として使われていましたが、武寧王時代の1406年に尚巴志の軍勢に攻め込まれて落城します。
その後、尚巴志は中山の王都として首里城を居城としたため、浦添グスクは荒れ果てていったようです。
(ただし同時に使われたという説もあります)
ちなみに伝承では英祖王の前の舜天王の時代にもこの浦添グスクを居城としていたそうですが、発掘調査では13世紀末より前のものが出土していないため、現時点では13世紀末の築城とされています。
もっとも舜天王自体が源為朝を父とするなど、伝説上の人物なので実在はかなり疑わしいと思います。
浦添家の屋敷として
もうひとつは1524年に第二尚氏3代・尚真王の長男である尚維衡(しょういこう)を祖とする浦添家(浦添按司家)が移り住んで以降の期間です。
なぜ長男である尚維衡が王位を継げなかったかというと、彼の実母が尚宣威王(しょうせんいおう)の娘・居仁だったからだと考えられます。
人物相関図を見てみましょう。
1476年に第二尚氏王朝を開いた尚円王が没すると、尚円王の正室・オギヤカは自分の息子である尚真を即位させるために、2代国王として即位した王弟・尚宣威王をわずか半年で退位させ、首里から追放します。さらに嫡男の尚維衡が尚宣威王の血を引くのを許せず、廃嫡するよう仕向けます。
尚維衡はのちに世子に復帰するも、今度は自分が産んだ尚清を即位させたい尚真王の後妻・華后(思戸金按司)の計略により二度目の廃嫡となり、浦添で隠遁することになります。
王位継承の争いに敗れたわけですが、琉球の歴史において暗殺や毒殺は比較的少ないみたいですね。尚宣威王も尚維衡も首里からの追放ですんでいますし。
このような経緯であるため、浦添家は徳川将軍家における尾張徳川家のような位置付けであるものの、御三家が宗家の後嗣が絶えた時に備えて創設された一方で、浦添家の場合は「追放された王族」という立場でした。まさかこの先に王位継承者が出てくるとは誰も思ってなかったでしょう。
1589年、6代国王・尚永王に子がいなかったため、尚維衡のひ孫にあたる尚寧が即位することになります。
その後も一族は浦添グスクに残っていたようですが、1609年に薩摩藩の島津氏が琉球に侵攻すると焼き討ちにあい、浦添グスクは廃城となります。
またこのとき首里城にいた尚寧王は将軍・徳川秀忠に謁見するために江戸まで連行されるという仕打ちを受けます。
西室再現コーナーは必見
この「浦添グスク・ようどれ館」最大の見所は「浦添ようどれ」の「西室(せいしつ)」の再現コーナーです。
本物の浦添ようどれは内部が非公開となっていますが、ここにはかなり正確に西室内部が再現されています。
石厨子(いしずし)と呼ばれる石棺には福建省の石が使われていて、仏像や花、獅子などが彫られています。
首里城の龍柱など、琉球王朝時代は福建省の石が大量に輸入されており、権力者のグスクのいろんなところで使われていますね。福建省の石があるというだけで交易できるだけの力を持っていることがわかります。
ただしこの彫刻は中国で加工されたのか、琉球に運んできてから加工したのかはわからないそうです。
調査した先生によれば、仏教の経典と異なるので琉球側で加工した可能性があるとか。
また台座の模様はイスラム系の模様になっているそうです。
親富祖さんは「仏教にイスラム教と、この頃から沖縄は『チャンプルー(ごちゃまぜ)文化』だったんです」と笑われていましたが、当時から交易によっていろんな国の文化を吸収していたんですね。
室内が土敷きなのも特徴でしょうか。
伊是名島の玉御殿も、首里の玉陵も、琉球では聖域にサンゴを敷くと教わったのですが、ここは室内も前庭も土敷きだそうです。このあたりからも少し時代が古いことがわかります。
そしてぼくがもっともおもしろいと思ったのが、異なる時代の石棺(墓)が並んでいることです。
英祖王の時代の石棺と、その後の察度王の時代の石棺、さらに尚寧王の時代の石棺が同じ室内にあるというのはちょっと信じがたいことですよね。
織田家と豊臣家と徳川家が同じ墓を共有しているとたとえれば、どれだけ異常なことかがわかると思います。
一般的な感覚では、王権(政権)が変われば前の王がつくったものはすべて撤去されます。
それは大名クラスでもよくあることで、江戸時代でも新任地に入封した大名は(だいたい城内の一等地にある)前城主の菩提寺を追い出して、自分の家の菩提寺をそこに以前の領地から移転させます。
なのにこの浦添ようどれでは、直接の先祖でもない石棺を残して、その周囲に石棺を置いているのです。
ぼくが「なぜもともとあった石棺を残してるんですか?」と聞いたら、親富祖さんも「それがわからないんです」とおっしゃってました。
ただ浦添ようどれを尚巴志が修復したり、浦添ようどれの菩提寺である極楽寺を尚円王が移転再建したり、琉球という国は王権が変わっても以前の王統を全否定することはなかったのかもしれません。
それは琉球が冊封体制下にあったため外交面での体裁を維持することが理由だったのかもしれないし、ほかになにか理由があるのかもしれないけど、政権交代のたびに否定を繰り返してきた本土の歴史と比較すると興味深いポイントですよね。
なおぼくは現地にいく前に「浦添グスク・ようどれ館」に入館しましたが、50mほどしか離れてないので先に現地(浦添ようどれ)を見てから見学してもいいかもしれません。
浦添ようどれを見学
ひととおり知識を詰め込んだので、今度は現地に向かいます。
初期の中山王陵である「浦添ようどれ」は正月の特番でタモリさんも訪問されたということで、観光客が増えてるそうです。
ちなみに「ようどれ」というのは琉球の言葉で「夕凪」のことで「安定している」という意味が込められていると親富祖さんに教えていただきました。
(考え方としては常緑樹である「松」を障壁画に描いたり、優れた君主の治世に現れる「鸞鳥」の彫刻を彫るのに似てますね)
別名「極楽陵(ごくらくりょう)」と呼ばれるこの王の墓は、沖縄戦で壊滅的な被害を受けました。
いまある周囲の城壁は復元されたものですが、これは写真にステッキを持った人が写っていたため、ステッキの長さをもとに高さを算出できたんだそうです。
このあたりの城壁はすべて復元です。
テレビではこの門から太陽が見えるという話をされていたそうですが、親富祖さんは「御嶽ならともかくここは二番庭ですからちがうんじゃないかなあ。以前は木が生い茂っていたし、いまは採石で削れてますが岩盤もあったので、ここから太陽は見えなかった可能性が高いと思います」と話されてました。
どちらが英祖王の墓なのか
以前は向かって右の西室が英祖王の墓、左の東室が尚寧王一族の墓といわれていましたが、発掘調査後は固有名詞をつけないようにしたそうです。
というのも西室、東室ともに納められている遺骨の年代測定をするといずれも「13世紀の後半から14世紀」ということで、どちらが英祖王のお墓かわからないそうです。
また当初からこのような形状だったわけではなく、もともとは洞穴の中に瓦葺きの建物があり、その中に木棺があったと考えられています。
その後、石棺に移し替えたのが尚巴志の時代とされています。「浦添グスク・ようどれ館」で見たとおり、尚巴志は自分の先祖でもないのに(むしろ察度王統を自ら滅ぼしたのに)丁寧に葬ってるんですよね。
英祖が築いたときは西室のみで、ただそのとなりに洞穴があったので、尚寧王はそれを活用して東室を築いたともいわれています。
現在のように石積みと漆喰で塞がれたのは尚寧王の時代です。
「この浦添ようどれが伊是名島玉御殿や首里玉陵のモデルになったんですか」と間抜けな質問したのですが、時系列で整理すればわかるとおり、ここにふたつの部屋が並ぶのは尚寧王の時代なので、伊是名島玉御殿と首里玉陵(尚真王の時代)よりあとになります。
つまり尚寧王が首里玉陵をモデルにこの浦添ようどれを修復した可能性はありますが、逆はないですね。もちろんこうした霊屋的な王墓(王陵)の形状を尚真王が参考にして首里玉陵をつくったかもしれません。浦添ようどれの場合は自然地形(洞穴)を利用していますが、それを人工的につくったのがあの漆喰で塗り固められた小屋型の王陵ともいえますし。
(伊是名島玉御殿、首里玉陵いずれも屋根があるのは英祖王が造営した頃の浦添ようどれが瓦葺きの建物だったことにつながるのかもしれませんね)
ただ浦添グスクが首里城のモデルになったという説はあるそうです。武家屋敷の位置や、周囲に池や山があったりその名称が似ているんだとか。
この先に琉球最初のお寺である極楽寺がありました。
いま首里玉陵に入っていない第二尚氏王統の王は2代・尚宣威王(沖縄市)と、7代・尚寧王(浦添ようどれ)のふたりだけです。
尚宣威王は首里から追放されたためですが、尚寧王は自ら故郷であるこの浦添ようどれへの埋葬を希望したそうです。
浦添グスクを散策
つづいてグスク跡にまわります。
ほとんどが公園化されており、城壁も復元ですが、一部だけ現存しています。
入口になっている部分は、当時は城壁がつながっていました。
ただしここは参考になる写真などがなく、高さがわからないため部分的な復元になっています。
伊波普猷さんのお墓
城壁の手前には「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(いは・ふゆう)さんの墓があります。
それまで琉球国王の居城はずっと首里城だと考えられていたのを浦添グスクが首里以前の王都だったと発表された方ですね。
浦添(うらそえ)がかつて「うらおそい」と呼ばれていたこと、「うらおそい」とは「津々浦々(うら)を治める(おそい)」という意味であることから、この浦添グスクが中山王の王城(王都)だと発見されました。
珍しいお名前ですが、本名だそうです。
普猷さんはぼくと同じでサーターアンダギーが大好きだったみたいですね。
浦添家の屋敷跡
浦添家の屋敷跡です。敷石が一部だけ残っています。
親富祖さんによれば以前は「館跡(居館跡)」と呼んでいたのですが、規模が小さいため「屋敷跡」と改めているそうです。
浦添家の居館自体はかなり広範囲だったとされます。
発掘調査では水を貯めるプールのようなものも見つかっています。
親富祖さんは察度王統の時代はもっと広かったかもしれないとおっしゃってました。一方で英祖王統の時代は自然地形をそのまま使っていただろうから、もっと狭かったとも。
そのあたりは発掘調査をすればなにかしらわかるんだけど、英祖王統・察度王統・浦添家(尚維衡〜尚寧)と遺構が層になっているので掘れないそうです(掘ると新しい時代の遺構を傷つけてしまう)。なんとももどかしい話ですね。
正殿跡として、ハクソー・リッジとして
おそらく英祖王の時代には浦添ようどれと同じように高麗系瓦葺きの正殿があったと考えられています。
ただしこの付近は採石により完全に消滅してしまっているため、特定は困難です。
「ディーグガマ」という御嶽があります。
鍾乳洞が陥没してできた御嶽で、デイゴの木があったことから名付けられました。
沖縄戦での戦没者の遺骨を納めていた歴史もあるそうです(のちに糸満市摩文仁へ移葬)。現在は崩落の危険があるということで降りることはできません。
「トゥン(殿)」は豊作祈願のお祭りをおこなったとされる場所で、ここに2本の竹を結んだアーチをつくり、その前でノロがお祈りをしていました。
取材中も周囲には米軍兵がたくさんいましたが、冒頭に書いたとおりこの周辺(前田高地)は日本軍の防衛ラインに設定されていたため、かなりの激戦地となり、両軍ともに多くの死傷者が出たそうです。
米軍側では「ハクソー・リッジ」と呼び、いまも戦没者の慰霊に訪問しているみたいですね。
展望台から首里城が見える!
浦添グスクの展望台からは、当時中国との交易に使用していた牧港(まきみなと)が見えます。
牧港は沖縄最古の貿易港ともいわれていて、いまは水深が浅く船が入れないのですが、当時は水位がもっと高く、察度王の頃まで使われていたそうです。
ここから見えているほぼすべてが浦添按司の領地だったので、やはり豪族レベルではなく、王と呼ぶにふさわしい支配域だったようですね。
なお反対側を見ると、首里城が見えます。
これは教えてもらわないと気づかなかったと思います。いまは正殿や北殿が焼失したためわかりにくいのですが、よく見えたそうです。
焼失しなかった広福門が右側に見えてますね。
浦添と首里を結ぶ石畳道があった
浦添グスクから首里城まで約3.8kmあります。
この往来を便利にするために、1597年に尚寧王が首里と浦添をむすぶ石畳道を整備させました。
現在は一部が復元整備されています。
石畳道の少し手前に石碑「浦添城の前の碑」があります。
石畳道の竣工記念で建てられたこの石碑の表にはひらがな、裏には漢文で、道路整備をしたことと石橋に架替えたことが書かれています。
ひらがなの文章には公共工事(みんなのため)であることが書いてあるのですが、民衆は漢文が理解できないと考えたからか、漢文のほうは「3年に一度、5年に二度、先祖の墓参りをするために(=自分のため)」と書いてあります。表と裏で別のことが書いてあるというのはおもしろいですね。
親富祖さんたちは毎年11月3日に首里まで歩かれてるんだそうですが、去年は直前に首里城が焼けてしまったので途中までにしたとおっしゃってました。
このあたりにも城壁の遺構が確認できます。
横目地が通った「布積み」ですが、縦目地も通っているため強度は低いです。技術力が低いことから、おそらく14世紀から15世紀のはじめ頃(=察度王の時代)だと推定されています。
朝顔が咲いていました。
1月に朝顔を見るとは思いもしませんでしたが、年中咲いてるんだそうです。
たしかにどこのグスクにいっても草木が生い茂ってますが、沖縄は冬枯れしないので、手入れしないとすぐジャングルみたいになっちゃうんですね。
今回は時間の都合で立ち寄ることができませんでしたが、石畳道を降りたところにある県営浦添大公園南エントランス管理事務所には浦添グスクを紹介するパネル展示や、ジオラマ模型があります。
どちらにしても訪問時、ジオラマは沖縄県立博物館の「グスク展」に貸出中だったし、ぼくはそっちで見ることができたのでよかったです。
伊祖グスクも見学
浦添グスクからクルマで5分ほどのところにある伊祖グスクも案内していただきました。
現在は「伊祖公園」として整備されているので駐車場・トイレ完備です。
グスクへは遊具の脇を抜けていきます。
ちなみに芝生広場周辺の城壁はすべて復元です。
このグスクは英祖王の生誕地とされていますが、発掘調査がおこなわれていないため、詳しいことはわかっていないそうです。
グスクとしてのエリアも広くはないので、見学所要時間は30分弱程度でしょうか。
琉球石灰岩がむき出しなのでかなり歩くのは大変です。
(勝連グスクよりさらにデコボコしてました)
正殿跡に建てられている伊祖神社は城内にあった10の御嶽をまとめたものとされているのですが、10個もあったのか地元の方に聞いてもわからないそうです。
ここにある「伊祖城跡」と書かれた石柱ですが、「琉球政府」によって設置された珍しいものですので忘れずにチェックしましょう。
井戸もありますが、野面積みの粗いつくりなので、親富祖さんは「水が溜まったかわからない。雨水を一時的に溜めておく程度の井戸だったのかも」とおっしゃってました。
さらに奥に進みます。
「旗立て岩」と呼ばれる見張り台からの見晴らしが最高です。
もともとはここにも御嶽がありました。
牧港もよく見えますので、おそらく英祖王が浦添グスクに移ったあとも港の監視などのために使われたと思います。
「発掘調査をしてないのであんまり説明することがないんだよね」とおっしゃってましたが、「旗立て岩」からの眺望を味わうだけでも十分価値のあるグスクだと思います。
まとめ
「浦添グスク・ようどれ館」をスタートに、浦添ようどれ、浦添グスク、そして伊祖グスクと一気に案内していただいたので手元のメモが膨大な量になっていましたが、今回は英祖王の情報が多かったですね。
年末以来、琉球の歴史について学んでいるわけですが、神話と現実の境がちょうど英祖王のあたりだということがわかってきたので、「英祖王が実在したかはわからないけど、その時代に浦添グスクには強大な権力を持った按司(豪族)がいた」という発掘調査の結果はとても興味深いものでした。
また英祖王の墓かどうかはさておき、血の繋がりのない王統の王や一族が浦添ようどれに合祀(合葬)されていっていることには驚いたし、同時に琉球特有の文化や死生観みたいなものも感じました。
前政権の墓を撤去せずに、同じお墓に石棺を安置するなんてことは本土ではまず考えられないことですからね。琉球と本土には似てる点もかなりあるんですけど、こういう相違点を見つけるのも楽しいです。
それとこのレポートでは少ししか書いていませんが、とくにこの浦添グスク(や次に訪問する座喜味グスク)は沖縄戦による被害が大きく、そのことはグスクの歴史を語る上でなかったことにしちゃいけないとも思いました。
本土でも名古屋城や広島城など多くのお城が空襲によって焼失、破壊されましたが、取り返しのつかないことだからこそ、ぼくらはちゃんと語り継いでいくべきですね。
いつかぼくも浦添から首里まで親富祖さんたちといっしょに歩いてみたいです。
ガイドをお願いするには
親富祖さんが所属されている「うらおそい歴史ガイド友の会」にガイドをお願いした場合の料金表です。
時間 | 料金 |
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1時間、ガイド1名(20名以内) | 1500円 |
2時間、ガイド1名(20名以内) | 3000円 |
問い合わせ:
NPO法人 うらおそい歴史ガイド友の会(浦添グスク・ようどれ館内)
urasoerekisi@nirai.ne.jp
098-874-9345(9時~17時)