本日、二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました。
開始時間と開場時間をまちがえて30分以上早く来てしまいましたが、今回も定員50名を若干オーバー気味で60名くらいが参加していたように思います。
会場はいつもの大休憩所北側レクチャールームです。
最初に北村所長から挨拶がありました。
二条城は徳川家康が築城して、3代将軍・家光の時代にピークを迎え、そして幕末、大政奉還の舞台にもなりました。
あまり知られていませんが、大正天皇の即位の礼は京都御所でおこなわれたのですが、そのあとの饗宴が二条城でおこなわれています。
このように二条城は歴史を重ねているのですが、我々はまだまだうまく来場者に伝えられていません。
年間200万人をこえる来場者に来ていただいているものの、外国人観光客(63%)と修学旅行生(18%)が大半を占めており、京都市民は2.6%しか来場していないので、市民の方に建物や庭園をはじめとする二条城の魅力を知っていただきたい。
二条城は市民向けに年間パスポート(2000円/年)を今年からはじめています。
今年から二条城は二の丸御殿が別料金になったので(合計1000円)、2回来たら元が取れるお得なパスポートになっています。
(ぼくは一口城主なので不要ですが、京都市民の方はぜひ)
さらに今月から「世界遺産 二条城の夏」ということで、二条城では早朝開城や香雲亭で提供される朝食(要予約)などここ数年恒例になっている施策が実施されていますが、それに加えて、今回は「二の丸御殿・大広間四の間の特別入室」と「展示収蔵館にて大広間四の間の原画公開」を開催中です。
また数日前に今回取り上げられる「大広間四の間」の障壁画「松鷹図」の筆者は狩野山楽であると公式見解を発表した直後であることも注目ポイントですね。
「大広間四の間」の見どころと、筆者が狩野山楽と特定に至った経緯の説明
解説会の担当は松本学芸員でした。
最初はお城としての二条城の紹介です。
現在の二条城は東側から見ると凸型の縄張りになっていますが、徳川家康が築城したときは手前側(大きいほう)の長方形のみが城域であったこと、それを寛永年間に拡張したことなどが話されていました。
- 二条城について
- 家康時代は一重曲輪(おそらく「内堀と外堀がなく、城域を囲う水堀はひとつだけだった=単郭式」という意味だと思います)
- 寛永期に建てられた本丸御殿は天明の大火で焼けたので、現在の本丸御殿は明治時代に移築された宮家の住宅(桂宮家)
- 二の丸御殿の建物自体は家康時代のものだが、寛永期の大改修で間取りなどは大きく変更され、障壁画もすべて描き換えられた
- 現在、1016面が重要文化財に指定されている
- 天井画は美術工芸品ではなく「国宝建造物の一部」として扱われている
- 障壁画、天井画などぜんぶで3608面が現存している(江戸時代〜明治時代)
- 寛永行幸について
- 洛中洛外図屏風にも多数描かれている
- 行幸時の東大手門は現在のような櫓門ではなく薬医門になっている
- 二の丸御殿について
- 江戸時代のうちに大半の建物が移築されたり解体されたりしている
- 行幸御殿も移築された
- 大広間の南西隅で行幸御殿とつながっていた
- 出っ張り部分(溜まり)は近代まで残っていて、トイレとして使われていた
- ここにあった杉戸が残っている(杉戸絵は重要文化財に指定)
- 行幸時、大広間二の間と三の間は猿楽(能)を観賞するために使われた
- ただしこのときに四の間がどう使われたかは記録に残っていない
以下の写真は大政奉還の舞台にもなった大広間一の間と二の間を撮影したものですが(模写に変更される前の原画の頃)、じっさいにはこのようにすべてを閉め切って使うことはありません。
廊下側の長押には金具があり、戸襖をはずして御簾をかけて使用していたそうです。この御簾をかけるための金具は今回見学した四の間にもありました。廊下側の室内にあるため、通常は見ることができないポイントですね。
- 大広間四の間について
- もっとも大きな部屋で、52畳半の広さ
- 天井長押まで4m、東西14.7m、南北6.7m
- 現在この部屋の原画が展示収蔵館で公開されている
四の間の障壁画「松鷹図」は誰が描いたのか
これまで二条城は「狩野探幽または狩野山楽」と両方の説を併記して紹介してきましたが、このたび狩野山楽と断定するに至った経緯などについて説明がありました。
- 「大広間」全体の筆者は探幽という説が従来からあった
- 理由は指図(中井家文書)などに大広間という建物は探幽(正確には当時の呼び名である「采女」)と書かれているから
- ただし行幸後に解体された建物などがないことからこの文書は同時代のものではないと考えられる=伝聞情報
- そもそもこうした御殿の障壁画に絵師はサインを入れない(発注者に対して失礼にあたるから)
- 本来は控えなどが残っているが、二の丸御殿については同時代の資料がまったく残っていないので不明
同時代の情報が少ないこともあり、伝承であることは踏まえつつもおおまかな区分(担当者)としては
- 遠侍は弟子、甚之丞、道味
- 式台と大広間はどちらも探幽
- 黒書院は尚信
- 白書院は興以
と紹介されてきました。
それが以下の図です。
過去にも研究者の中には「一筆じゃない(ひとりで担当したのではなく、部分によって別の絵師が描いている)」と主張する人がいたそうです。
また1990年代以降、研究が活発になり、さまざまな説が出されるようになり、その中には「大広間四の間は狩野山楽」という説もありました。今回の二条城の発表はその説を後押しするものとなったわけですね。
狩野派の序列から考える
こうした異説の根拠のひとつが、「狩野派内部の序列」です。
以下は早逝した狩野家の総領・狩野貞信の遺言に署名した順番が示されたものです。ようするに「こういうのはえらい順にサインするはずだろう=当時の序列」というわけです。
ちなみにこの遺言書の内容ですが「狩野派の総領がいちばんいい部屋の絵を描くこと。みんなそれを守ってね。守らなかったら神様のバチが当たるよ」といったことが書かれているそうです。
それを踏まえて行幸御殿の指図を見ると、絵の左上にある「上段」には采女(探幽)の名前があります。
部屋の序列としてはその右隣と下の部屋が同率2位で格式の高い部屋になります。右の部屋は狩野永徳の弟である休伯(長信)、下の部屋には主馬(尚信)の名前が書かれています。その次が右上の部屋でここには永徳の甥にあたる甚之丞の名前があります。
5番目が中央の部屋(御帳台)になりますがここに当時の狩野家総領である安信の名前が出てきます。
安信は探幽・尚信の弟ですが、貞信に子がいなかったので養子となり宗家を継いでいます。つまり名目上のトップが安信でしたが、この時点における実質的なトップは探幽であるという証明です。
ところで山楽や興以といった弟子筋の人たちは実力はあったものの血筋の関係か、主要な部屋を任されず「庇(ひさし)の間」という外側の部屋(上の指図だと左下と中央下の部屋)を担当しています。
こうした序列の研究や、新しく発見された狩野派の作品との比較などを通して、最新の説は以下のように修正されています。
- 遠侍は甚之丞とそのグループ
- 式台は山楽(または探幽)、ただし老中の間は興以とそのグループ
- 大広間は探幽、ただし四の間は山楽
- 黒書院は尚信と一世代以上上の弟子たち
- 白書院は長信
もちろん確定ではなく有力説という話で、今回から二条城は大広間四の間を山楽と紹介することにしたようですが、探幽説を主張する研究者もいます。
わざとちがう描き方をしたのか、そもそも別人が描いたのか
以下の写真は大広間一の間(上)と四の間(下)に描かれた「松」の絵です。
一の間のほうは帳台構えがあるので中央側(東側)、四の間のほうも中央側(西側)ですね。とはいえこの二面は裏表ではなく間に「帳台の間」があります。
ふたつの松の絵を見比べてみると、幹の伸び方(真っ直ぐ伸びるか、曲がって伸びるか)、葉の多さ、金雲や流水の有無(奥行きの表現)、余白の大小、鳥の大きさなど、ぼくらでもちがう絵だなとわかるくらい差があります。
このちがいをどう解釈するかが探幽説・山楽説の争点でした。
探幽説主張派は「探幽が『裏の間』である四の間はわざとちがうスタイルで描いた。祖父である永徳様式(桃山時代の様式)を模倣して描いた」と解釈してきたのに対して、山楽説主張派は「ここまで絵がちがうなら筆者がちがうと考えたほうが自然」と解釈して、永徳の直弟子である山楽を推してきたわけです。
鳥の絵については拡大写真での説明もありました。
また探幽が描いた杉戸絵が残っているので(大広間から蘇鉄の間に抜ける手前に模写がはめられています)、これとの比較もされました。
探幽説支持者は「似ている」と主張してきましたが、二条城で調査したところ、細部を見るとぜんぜんちがうことがわかったので、鳥の描き方を見ても筆者がちがうと考えるべきという結論に至ったそうです。
さらに以前から指摘されている、妙心寺天球院にある山楽が描いた「松図」との相似性を踏まえても、総合的に判断して、二条城としては今回から四の間の筆者(=「松鷹図」の筆者)は山楽と紹介することに決めたそうです。
この「松図」は「e国宝」のサイトで見ることができますが、たしかに似ています。
特別入室の見どころ
過去の特別入室でも楽しみのひとつでしたが、ふだんはなかなか見ることができない天井画をはっきり確認できます。
ふだんの御殿内は暗いし、廊下から斜めに見るので、折上格天井のような立体的な構造は視認できますが、格天井の中に描かれている天井画まではよく見えませんからね。
以下は四の間の天井画の拡大写真です。
外側に唐草、四隅には蝶と唐花、さらに三つ葉葵が上下左右に合計12個あって、中央に孔雀が描かれたデザインになっています。
78面ある天井画ですが、孔雀の絵はすべてに描かれており、しかも何パターンかあることも紹介されていました。
頭を下に向けている、羽を広げている、しっぽが丸まってるなどで分類されています。
格天井の枠の大きさがちがうということもはじめて知りました。
なんとなく同じ大きさでつくられていると思っていましたが、じっさいには列の幅が広かったり狭かったりします。じっさいに入室して確認しましたが、たしかに大きな枠や小さな枠がありました。
これも廊下からはわかりにくいポイントですね。
つづいて辻金物(つじかなもの)の写真です。
真ん中は三つ葉葵で、そこから伸びるのは牡丹唐草(ぼたんからくさ)です。
大広間だけ室内と廊下が同じ辻金物らしいので、廊下でも確認できますね。
(ここは未確認だったので今度見てきます)
釘隠しも大広間は二の丸御殿内でもっとも立派なもので、「花のし型」と呼ばれる釘隠しです。
大広間と黒書院はほぼ同じデザインだけど、大広間のほうがパターン化されていて、黒書院のほうはひとつずつ図柄の配置などが微妙に異なっています。
欄間彫刻には唐松、薔薇、根笹、そして隙間から三の間側の孔雀のお尻や羽が見えています。
この欄間は厚さ35cmの一枚板を削ったものですが、裏側ではあるけれど、見苦しくないようにうまく処理しています。
西側は孔雀の足が見えています。白丸で囲った部分が足です。
最後に松本さんが「絵画、金属工芸、彫刻と『建築は総合芸術』といわれますが、美術の歴史上、桃山の最末期に位置づけられる二の丸御殿は、まさにその時代を象徴した建物といえると思いますので、本日はぜひ現地で味わっていただければと思います」とまとめて解説会は終了しました。
以前、マンガのために二条城を取材した際に後藤課長(当時)からも、いわゆる日本史においての「桃山」は「安土桃山時代」というように信長と秀吉の時代、つまり徳川家康が征夷大将軍となった1603年(慶長8年)までを指すけれど、美術史や建築史においての「桃山」はそれより少しあとの寛永年間(1624年〜1644年)あたりまでを含むのでちょっとずれていると教わりました。
二の丸御殿や唐門など、二条城の建築物はすべて「桃山」の時代様式、それも桃山末期のとして扱われているそうです。
このあと二の丸御殿内に移動して、大広間四の間の室内に入って説明を受けました。
(四の間には現在誰でも入れます)
- 現在はめられている障壁画はすべて模写、ただし天井画は当時のまま(修復はされている)
- 即位の大礼のあとの饗宴の際、二の丸御殿はすべて絨毯敷きになった
- そのときに天井の辻金物のところに電灯を吊るしたので所々穴が開いている(この四の間もそうだったかは不明)
- なお大正天皇は白書院を使い、黒書院と大広間は家族の方や外国の方が使った
- 欄間彫刻に金色の絵の具=金泥(きんでい)が残っている
- 名古屋城本丸御殿・上洛殿の欄間彫刻を見れば当時の極彩色だった頃のイメージが掴めると思う
- 雲によって前後関係を表現し、奥行きを出す描き方は桃山様式で、二の丸御殿では甚之丞が担当した遠侍と、この大広間四の間にだけ見られる
- 二の丸御殿の改修時には年代的には三世代くらいの絵師が参加しているので、新世代と旧世代の新旧両方の様式が見られるのも特長
- なお金工の専門家によれば引手金具にも新旧両方の様式が見られるとのこと
- 障壁画は1年2ヶ月で二の丸御殿以外も含めてぜんぶ描き上げている
- 室内に一本だけ松じゃない木が描かれているが(部屋の南東隅)、植物学上はこんな木は存在しないといわれている
- ただし資料によれば柏の木らしい
- 廊下側の杉戸絵に「柏に鳩」が描かれているのでその関係か
- 四の間の別名「槍の間」は早くても江戸中期以降、資料的には1843年(天保14年)以降に見られる
- なぜ「槍の間」と呼ばれるようになったのか、その経緯は不明
- 徳川家茂が200年ぶりに上洛した1863年(文久3年)の記録で老中が御三家や大寺院の使いと謁見した場所として「槍之間の縁頬(槍の間の縁側)」という記述がある
- 武器を置いたという伝承があるが、その事実ははっきりしない
- ほかのお城にも「槍の間」はあり、亀山城本丸御殿や仙台城二の丸御殿などでは番士の詰め所として使われた
「柏に鳩」が気になったので調べてみたところ、栃木県立博物館に「柏に鳩図」というのがあり、わりとよくあるモチーフのひとつのようです。
この柏の木は廊下側の面(東面)に描かれているので、ふだんは見れませんからこの特別入室期間中(と展示収蔵館での公開中)に見るしかないですね。
解説会終了後、せっかくなので本物も見ていこうと思って、展示収蔵館に寄りました。
なおこの写真は2005年(平成17年)の開館記念展の際に撮影されたもので、当時は南面と西面(写真でいうと正面と向かって右面)の襖の修理が終わってなかったそうです(現在はすべて本格修理が完了済み)。
直前に模写を見たばかりだったので、原画とぜんぜんちがうのがよくわかりました。
修復したとはいえ、褪せたり傷んだりはするわけですから、色味がちがうのも当然なのですが、両方見たからこそ気づけるんですよね。こちらは別料金(200円)ですが、せっかく来られた以上はぜひ立ち寄ってください。
(城主証をお持ちの方は提示すれば無料で入れます)
7月27日にはこの展示収蔵館において、原画を見ながら学芸員の解説が聞けるギャラリートークがあるので、時間があれば参加しようかなと思っています。
今回紹介した大広間四の間の特別入室は9月30日(月)までなので、気になる方はお早めに!(火曜日が休みなのでご注意を)
最後に
二の丸御殿の特別入室と学芸員解説会は昨年の遠侍二の間、今年1月に開催された大広間三の間につづいて3回目になると思いますが、毎回すごく楽しませてもらっています。
今回も格天井の枠の大きさがちがうとか、新しい知識が増えましたし、ぼくらがつくっている二条城のガイドブックでも大広間四の間の作者は狩野山楽に修正しようと思います。
(白書院が長信、遠侍が甚之丞までは最新の学説に追いついていたのですが、「松鷹図」は探幽で紹介していました)
二条城を江戸時代から残る「お城」として紹介するべきなのか、二の丸御殿を「美術館」として紹介するべきなのか、あるいは二の丸庭園や本丸庭園など時代が異なる3つの「庭園」をメインに紹介するべきなのか、そこの整理をつけていくことがとくに国内観光客や市民に向けてプロモーションする際に大事になってくるような気がします。
攻城団の利用者の中にも「二条城はお城っぽくない」と感じる方もいらっしゃるでしょうし(でも二条城って縄張りとしてはめちゃくちゃわかりやすい輪郭式ですよね)、ぼくも答えが見えているわけではないのですが、今後ガイドツアーでのみなさんの反応なども踏まえながら、絞り込んでいければいいなと思います。
もっともアピールポイントがたくさんあるがゆえの悩みですけどね。
この日も城内にいるのは外国人観光客ばかりでしたが、二条城はほんとに素晴らしいお城なので、もしまだ訪問したことがないという方はぜひ来てください。
年初に開催された大広間三の間の解説会のレポートはこちらです。