名古屋城の本丸御殿はもともと初代藩主、徳川義直の住居として1615年(慶長20年)に建てられた御殿です。
「大坂の陣」直後には、この本丸御殿で義直と浅野幸長の娘・春姫との婚儀がとりおこなわれており、その後もしばらくは住居として使用しましたが、1620年(元和6年)には二の丸御殿に引っ越したため、以後は将軍上洛時の御成御殿、いわば迎賓館として使用されることになりました。
しかし、じっさいに本丸御殿を使った将軍は徳川秀忠と家光のみで、その後は尾張藩士により警備と手入れがおこなわれるだけだったそうです。
表書院
創建当初は御殿において最大かつ最高格式の部屋だったのが表書院です。
江戸時代は「広間」と呼ばれており、藩主との正式な謁見(対面儀礼)はこの部屋でおこなわれました。
大きな入母屋造りの殿舎で、藩主が着座した上段之間(15畳)のほか、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の五部屋があります。
上段之間には床と違棚、付書院、帳台構など正式な座敷飾りを揃えています。
上洛殿
上洛殿は創建当初はなかった建物で、1634年(寛永11年)の徳川家光が上洛する際に新築されました。
別名「御成書院」とも呼ばれる、本丸御殿のなかでもっとも格式の高い殿舎です。江戸時代には「御書院」や「御白書院(おしろしょいん)」と呼ばれました。
家光の御座所となった上段之間(15畳)のほか、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸之間(10畳)の六部屋で構成されており、狩野探幽が中心になって描いたとされる障壁画はもちろん、天井や長押、欄間などあらゆる場所に絢爛豪華な装飾がほどこされています。
障壁画の画題について、狩野派では「走獣(そうじゅう)」「花鳥」「人物」「山水」の順に部屋の用途や格式にあわせてモチーフが選ばれていましたが、最上位の「山水」をすでに対面所で使用していたこともあり、上洛殿・上段之間および一之間にはさらに格式を高くするために「帝鑑図」を描いています。
天井は「黒漆塗二重折上げ蒔絵付格天井」になっています。
また二之間には探幽の傑作ともいわれる「雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)」が描かれています。
このほかにも釘隠しや引手金具、欄間など本丸御殿には見どころがたくさんあります。
二条城二の丸御殿とちがって撮影ができるのも名古屋城本丸御殿の特長ですので、精巧に復元された御殿建築をいろんな角度から撮影されることをオススメします。
取材レポート
本丸御殿の第3期工事部分「上洛殿」が一般公開される前に取材させていただいた際のレポートもあわせてお読みください。