名古屋城
16 名古屋城

[愛知県][尾張] 愛知県名古屋市中区本丸1-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.63(56位)
  • 見学時間:1時間44分(22位)
  • 攻城人数:2199(2位)

本丸御殿

名古屋城の本丸御殿はもともと初代藩主、徳川義直の住居として1615年(慶長20年)に建てられた御殿です。
大坂の陣」直後には、この本丸御殿で義直と浅野幸長の娘・春姫との婚儀がとりおこなわれており、その後もしばらくは住居として使用しましたが、1620年(元和6年)には二の丸御殿に引っ越したため、以後は将軍上洛時の御成御殿、いわば迎賓館として使用されることになりました。
しかし、じっさいに本丸御殿を使った将軍は徳川秀忠と家光のみで、その後は尾張藩士により警備と手入れがおこなわれるだけだったそうです。

名古屋城本丸御殿とは
 名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615)に建てられました。寛永11年(1634)には将軍のお成(なり)御殿として上洛殿(じょうらくでん)が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、昭和20年(1945)の空襲で天守閣とともに全焼しました。名古屋市では、平成21年(2009)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月には入口にあたる玄関、謁見の場である表書院などの公開を開始しました。

本丸御殿の復元工事

この本丸御殿は総面積約3000m2、当時の二条城二の丸御殿に匹敵する規模で、南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていました。そのほか、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、ほかにも各種の蔵や番所が建てられていました。

しかしこれらの建物はすべて第二次世界大戦時の1945年(昭和20年)5月14日の空襲で失われました。
内部には狩野探幽ら狩野派の絵師たちによる1300面あまりの障壁画と天井画があり、このうち345面が1942年(昭和17年)に旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定されていました。襖、障子、天井画など取り外し可能な1049面の障壁画については空襲直前の1945年1月に取り外し、城内御深井丸の乃木倉庫に移動してあったため難を逃れましたが、取り外し不可能であった壁貼付絵、床(とこ)貼付絵などは建物とともに焼失してしまいました。
焼失をまぬがれた襖絵等は重要文化財に指定、保存されています。

地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建された天守につづいて、本丸御殿の復元も計画されましたが、バブル崩壊などの資金難で一時は中止の危機に瀕したこともありました。
しかし、1994年(平成6年)5月14日には市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が設立され、復元に向けての動きが活性化されると、名古屋市は2002年(平成14年)から本丸御殿復元のための「名古屋城本丸御殿積立基金」の寄附募集を開始し、そして2007年(平成19年)には文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2009年(平成21年)1月19日に復元工事が着工されました(総工費150億円)。

復元工事前の本丸御殿跡(2008年2月10日)
復元工事中の本丸御殿(2010年10月)

また、この復元工事にあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められています。

復元公開された本丸御殿

第一期公開エリアとして、2013年(平成25年)5月29日から玄関と表書院(謁見の場所)が一般公開されると、その後も2016年度(平成28年度)に対面所等が公開され、そして2018年(平成30年)6月8日からすべての建物が公開されています。

玄関(遠侍)

古くは「遠侍(とおざむらい)」と呼ばれた場所で、訪問者はまずここで対面を待つことになります。
入母屋造りの妻入で、入口となる車寄が正面に突き出しています。

車寄の屋根は柿葺(こけらぶき)で、将軍家と身分の高い一部の大名だけが使用を許された唐破風となっています。また黒漆塗りに金の金具の屋根は室町時代の将軍邸の形式で天下人の象徴とされました。

車寄(くるまよせ)
車寄は、将軍など正規の来客だけが上がる、本丸御殿への正式な入口です。唐破風屋根をいただく堂々たる外観で、本丸御殿の中でも最も太い柱が使われています。

内部は一之間(18畳)、二之間(28畳)の二部屋からなり、一之間には床や違棚もついています。
二条城と同じように「竹に虎」をモチーフにした「竹林豹虎図」が描かれており、「虎之間」とも呼ばれていました。

表書院

創建当初は御殿において最大かつ最高格式の部屋だったのが表書院です。
江戸時代は「広間」と呼ばれており、藩主との正式な謁見(対面儀礼)はこの部屋でおこなわれました。

大きな入母屋造りの殿舎で、藩主が着座した上段之間(15畳)のほか、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の五部屋があります。

上段之間には床と違棚、付書院、帳台構など正式な座敷飾りを揃えています。

対面所

対面所は藩主が身内や家臣との私的な対面に使用した部屋です。
上段之間(18畳)のほか、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の四部屋で構成された殿舎です。

対面所・上段之間
対面所・次之間

上段之間および次之間に描かれた障壁画は「風俗図」と呼ばれ、上段之間には京都の、次之間には和歌山の風俗がそれぞれ描かれています。一説にはここで義直の婚儀がおこなわれたとされ、義直の正室・春姫の故郷が和歌山だったことから和歌山の風景が描かれたといわれています。

また天井は黒漆塗の天井板に金箔が貼られた豪華な折上小組格天井になっています。

上洛殿

上洛殿は創建当初はなかった建物で、1634年(寛永11年)の徳川家光が上洛する際に新築されました。
別名「御成書院」とも呼ばれる、本丸御殿のなかでもっとも格式の高い殿舎です。江戸時代には「御書院」や「御白書院(おしろしょいん)」と呼ばれました。
家光の御座所となった上段之間(15畳)のほか、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸之間(10畳)の六部屋で構成されており、狩野探幽が中心になって描いたとされる障壁画はもちろん、天井や長押、欄間などあらゆる場所に絢爛豪華な装飾がほどこされています。

障壁画の画題について、狩野派では「走獣(そうじゅう)」「花鳥」「人物」「山水」の順に部屋の用途や格式にあわせてモチーフが選ばれていましたが、最上位の「山水」をすでに対面所で使用していたこともあり、上洛殿・上段之間および一之間にはさらに格式を高くするために「帝鑑図」を描いています。

天井は「黒漆塗二重折上げ蒔絵付格天井」になっています。

また二之間には探幽の傑作ともいわれる「雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)」が描かれています。

このほかにも釘隠しや引手金具、欄間など本丸御殿には見どころがたくさんあります。
二条城二の丸御殿とちがって撮影ができるのも名古屋城本丸御殿の特長ですので、精巧に復元された御殿建築をいろんな角度から撮影されることをオススメします。

取材レポート

本丸御殿の第3期工事部分「上洛殿」が一般公開される前に取材させていただいた際のレポートもあわせてお読みください。

   
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