名古屋城
名古屋城

[愛知県][尾張] 愛知県名古屋市中区本丸1-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.79(28位)
  • 見学時間:1時間28分(24位)
  • 攻城人数:6033(4位)

名古屋城の金鯱

1612年(慶長17年)に名古屋城天守が竣工した当時の金鯱(きんこ)の高さは約2.74m、一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれています。
金箔張りではなく金板で造形しているのが特徴です。

しかしその後、尾張藩の財政が悪化したことに伴い、1730年(享保15年)、1827年(文政10年)、1846年(弘化3年)の3度にわたって鯱の金が利用され、金板の改鋳を行って金純度を下げつづけました。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュしたそうです。

Old Nagoya Castle Golden Shachi-Hoko Statue. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

金鯱の鱗は江戸時代、明治時代を通じて何度も盗難事件にあっており、この金網も表向きは盗難防止や鳥避けのためとされていました。

この金網は戦災により焼失するまで取り付けられていたそうです。
これは焼失前の本丸の写真ですが、たしかに金網がついています。

焼失前の本丸

その後、金鯱は1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められました。
そして1872年(明治5年)に開催された湯島聖堂博覧会への出品、雄鯱は石川・大分・愛媛などで開催された博覧会へ出品、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品されています。

ウィーン万国博覧会に出品された雌鯱

雌雄ふたつの金鯱が大天守に戻ったのは、1879年(明治12年)2月のことです。

名古屋城の金鯱は、徳川の金鯱の中ではもっとも長く現存していましたが、1945年(昭和20年)に起きた名古屋大空襲で焼失しました。
金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還されています。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存してあるそうです。

なお、現在の金鯱は1959年(昭和34年)の天守再建時に復元されたもので、一対に使用された金の重量は88kgとなっています。

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

名古屋城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟

中の写真、図が多くて「読みやすそう」と手に取りました。家康を生んだ松平氏について、戦国大名徳川家康の苦悩、家康を支えた家族、家臣団についてなど最新の情報で詳しく著されています。大河ドラマの予習としてもいいですが、「ここはこう解釈されたのか」と復習しながらよむのも一興です。今まで定説になっている「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の家康像とは、少し違った家康像が見えてきます。

黒まめさん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る