1612年(慶長17年)に名古屋城天守が竣工した当時の金鯱(きんこ)の高さは約2.74m、一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれています。
金箔張りではなく金板で造形しているのが特徴です。
しかしその後、尾張藩の財政が悪化したことに伴い、1730年(享保15年)、1827年(文政10年)、1846年(弘化3年)の3度にわたって鯱の金が利用され、金板の改鋳を行って金純度を下げつづけました。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュしたそうです。
金鯱の鱗は江戸時代、明治時代を通じて何度も盗難事件にあっており、この金網も表向きは盗難防止や鳥避けのためとされていました。
この金網は戦災により焼失するまで取り付けられていたそうです。
これは焼失前の本丸の写真ですが、たしかに金網がついています。
その後、金鯱は1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められました。
そして1872年(明治5年)に開催された湯島聖堂博覧会への出品、雄鯱は石川・大分・愛媛などで開催された博覧会へ出品、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品されています。
雌雄ふたつの金鯱が大天守に戻ったのは、1879年(明治12年)2月のことです。
名古屋城の金鯱は、徳川の金鯱の中ではもっとも長く現存していましたが、1945年(昭和20年)に起きた名古屋大空襲で焼失しました。
金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還されています。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存してあるそうです。
なお、現在の金鯱は1959年(昭和34年)の天守再建時に復元されたもので、一対に使用された金の重量は88kgとなっています。