東門から入ってすぐ右手にある庭園が二の丸東庭園です。
二之丸東庭園
二之丸庭園は、文政年間(一八一八〜二九)に大改造された。西隣りにある現在の「名勝・二之丸庭園」とともに、藩主常任の二之丸御殿の庭園を形成していた。「御城御庭絵図(おしろおにわえず)」によれば、北に権現山(ごんげんやま)、その西に栄螺山(さざえやま)を配し、南に大きな池を設け、その間に六つの茶席を点在させるなど、広大な規模であった。明治の初め、陸軍鎮台分営(のちに第三師団)が郭内に置かれて以来、権現山の南側を削り、池を埋めるなどして兵営化が進められた。昭和五十年、絵図に基づいて一部の発掘調査を行った。それで現れた北池・南池・霜傑亭(そうけつてい)(茶席)跡・北暗渠の四つの遺構を中心に整備して、昭和五十三年四月、「二之丸東庭園」として開園した。
庭園の奥には発掘されたままの姿で暗渠型の排水路(埋設あるいは蓋をした導水路)が展示されています。
北暗渠(きたあんきょ)
「御城御庭絵図(おしろおにわえず)」にある御庭の外側の暗渠式排水路の遺構が、発掘調査したときのままの状態で整備してある。
絵図によれば、この付近には花壇があった。
これは、「金城温古録(きんじょうおんころく)」にある、雨水を引き入れる「水道石樋(すいどういしどい)」の遺構と認められる。現在も、ここにたまった雨水は、石樋を通じて堀へ注いでいる。暗渠に用いられている石材は、蓋石(ふたいし)が花崗岩(かこうがん)、側石が硬質砂岩である。