戦国武将たちは総じて信仰心が篤い。
織田信長は桶狭間へ出陣するにあたって熱田明神へ参詣したし、上杉謙信は毘沙門天を信仰するあまり自らをその化身と信じるに至った。謙信自身やそのライバル・武田信玄をはじめとして出家後の名前で広く知られている武将・大名も多い(それぞれの出家前の名は「上杉(長尾)景虎」と「武田晴信」)。
また、この頃には「天道(てんどう)」と呼ばれる、世界の摂理を司どる存在も広く信仰されていたようだ。
では、家康はどんな宗教を信仰していたのだろうか。
松平氏の菩提寺は今でも愛知県岡崎市にある成道山松安院・大樹寺(だいじゅじ)だ。この寺は当然仏教であり、宗派は浄土宗。鎌倉時代に法念が開いた宗派であり、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば極楽往生できると訴えて多くの信徒を獲得したことでよく知られている。
大樹寺はそもそも開いた時点から松平氏との縁が深い寺だ。
ある時、松平氏の第四代当主である親忠(ちかただ)が、合戦で討死した死者たちが泣き叫ぶ声がずっと聞こえてしまって苦しむ、ということがあった。しかし、勢誉愚底(せいよぐてい)という僧侶に七日七夜に渡って念仏を唱えてもらったことでこの声から解放され、その後彼に大樹寺を開かせた、という。
だから家康のもともとの宗派は当然浄土宗である。彼と大樹寺にも有名なエピソードがあるが、これはのちのち紹介することにしたい。
注目したいのは、どうも家康は晩年になって宗旨替えをしたらしい、ということだ。
そもそも、戦国大名や戦国武将はブレーンや外交担当として、しばしば僧侶とのつながりを持っているものだ。
中でも晩年の家康のブレーンとして活躍した僧侶として、天台宗の南光坊天海(なんこうぼう てんかい)と、禅宗の金地院崇伝(こんちいん すうでん)の二人がいた。
特に、家康が天海から受けた影響は非常に大きなものがあり、彼との出会いを経て天台宗に傾倒するようになったようだ。
とはいえ、家康は全く浄土宗の信仰を捨ててしまったわけではないらしい。
松平氏の元々の菩提寺が三河の大樹寺であることはすでに触れたが、江戸で家康の、そして徳川氏の菩提寺となったのは増上寺――その宗派もまた浄土宗である。また、家康は遺言において「葬式は増上寺で、位牌は大樹寺に」と言い残している。
自分の死は松平(徳川)代々の流れを汲んだ形で飾りたい、というのが家康の最後の望みであったわけだ。
なお、今紹介した家康の遺言は守られているが、同時に言い残していた「亡骸は久能山に」は守られていない。
一度は埋葬されたものの、掘り起こされて日光山へ移されたのだ。天海が行ったものとされる。また天海は日光山に眠る家康を自らの信仰に基づいて「東照大権現(とうしょう だいごんげん)」として神格化もしている。
結局、浄土宗の増上寺と、天台宗で天海が開いた寛永寺が徳川家の菩提寺として、江戸時代を通して重要な位置を担っていくことになったのだった。
そもそもこの時代の人々にとって宗旨替えや複数の宗派を信仰することがそこまで特別だったかというと「あまり気にしなかったのでは」と思われる。
例えば上杉謙信のケースだ。彼が生まれた長尾家の菩提寺は林泉寺(曹洞宗)だが、上洛した時に大徳寺(臨済宗)の徹岫宗丸に参禅して宗心という法名まで与えられている。