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【家康の謎】家康はなぜ「徳川」に改姓したの?

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榎本秋の家康の謎

1566年(永禄9年)、家康は三河から今川氏勢力を駆逐し、三河を(一部の織田方の所領を除いて)おおむね統一することに成功した。そしてちょうどこの頃、関白・近衛前久(このえ さきひさ)を通して朝廷から従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわのかみ)の官位をもらい、さらには「松平」から「徳川」へ改姓したのである。

では、家康はどうしてわざわざ苗字を改めたりしたのだろうか。
これはかつて祖父・清康が対今川氏を見据えて「世良田(せらだ)」を名乗ったのに倣ったものであろうと考えられている。つまり「世良田」と同じく新田氏に属する「徳川(得川)」を名乗ることによって、権威づけをおこなおうとしたわけだ。

ただこの場合は外敵を見据えたというよりは、松平一族という内側に対しての理屈が働いたのではないか、と考えられている。
後世に「十八松平」とか「十四松平」と呼ばれる松平一族は大いに分裂しており、この時点では家康が一歩抜きん出た存在であったとしても、いつ足元を掬われるかわからない――それこそ、清康が「森山崩れ」の一件で急死し、せっかく築き上げた勢力が一気に失われたように、だ。

そこで家康は「松平」ではない、かつ一族のルーツである新田氏により近い(と考えられた)名前を名乗ろうと考えた。それが「徳川(得川)」だった、というわけだ。
こうすることで家康(血筋としては岡崎松平氏)と他の松平一族には明確な格の違いが生まれ、容易には逆転できない。

もちろん、名前を変えただけで昨日まで敵であった一族が平伏してくれたなら苦労はない。
まずは当然、実力が必要だった。繰り返すが、家康も三河をほぼ統一した上で「徳川」を名乗っているのである。そしてその上で、官位をもらい、「三河守」という三河のリーダーに相応しい官職(当然名目だけではあるが)を掲げ、他の松平一族とはもはや別の存在であることを示す徳川の名前を名乗る――つまり、権威によってダメ押しをおこなおうとした、ということなのだ。

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