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【家康の謎】家康は源氏なのか

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榎本秋の家康の謎

徳川家といえば本姓(ほんせい。一般的な姓、苗字とは別にルーツを示す名前)は清和源氏、ということに現在ではなっている。
だからこそ征夷大将軍になれたのだ、というわけだ。しかし、実際のところは別に征夷大将軍になるのに源氏である必要はなかった(織田信長が朝廷から将軍職を提案されたことなどが根拠)とされている。それどころか、家康が本当に源氏だったかどうかさえ怪しい、という話をご存知だろうか。

徳川氏、ひいては江戸幕府が正史として伝える徳川氏の由緒話は以下のとおりである。
そもそもの祖は「源義家の孫・新田義重の四男・義季(よしすえ)」だ。この人が上野国新田荘世良田郷徳川村に腰を落ち着け、「得川四郎(とくがわ しろう)」を名乗った。
ところが、末裔は室町幕府によって上野から追い払われてしまい、僧侶として各地を放浪した末に三河国加茂郡松平郷の土豪のもとへ流れ着き、入り婿になって「松平太郎左衛門尉」を名乗った。この人こそが松平初代、「松平親氏(まつだいら ちかうじ)」である、という。

しかし、この物語は非常に信憑性が低いことが今でははっきりわかっている。
そもそも家康自身は「自分は新田氏の末裔である」と信じていたようだが、その証拠を見出すことができず、残念がっていたという話が伝わっている。また、17世紀半ばに松平氏によってまとめられた史料によると、確かに入り婿になった僧侶はいたらしいのだが、「名前は信武」「教養のある、どちらかといえば京風の人物」という描写になっていて、先ほどの物語とチグハグになっている。
では、松平(徳川)の本姓は結局何なのか。松平信光の頃には「賀茂氏(かもし)」を名乗っており、背景には松平郷と賀茂氏のつながりがあったようだ。

その後、家康が1566年(永禄9年)に姓を「松平」から「徳川」と改めた際には、自らの本姓を「源氏(から藤原氏に変化)」であると主張している。背景には、三河守の叙任(=位階を授け、官職に任ずること)を受けるために前例が必要であった、という事情がある。
「新田氏の有力家系である得川氏」と「かつて近衛家の家臣で叙任してもらったことがある徳川氏」を重ね合わせて、「だから叙任の前例はある」とするロジックがあったわけだ。ここまでしてでも三河守の官位が欲しかったのは、同年に統一を果たしたばかりの三河国を支配するための権威、裏付けが必要だったためと考えられている。

以後の家康は「源氏」「藤原氏」の両方を使っていたようだが、将軍になる前後で「源氏」に統一しようとしている。
将軍になるために原則として源氏になる必要はないとしても、室町幕府将軍を永く源氏が務め、「源氏長者」の称号が付属するものとして認められていたことなどから、源氏であった方がやはり都合は良かったのだろう。そのために家康はわざわざ足利一族で源氏の名門にあたる吉良(きら)氏から源義家の子・足利義国(あしかが よしくに)に始まる系図を手に入れまでしているのだ。

ちなみに、徳川将軍家とはまた別に「我もまた得川義季の子孫である」として、江戸時代に徳川を名乗っていた家系があるのをご存知だろうか。
これが秋田藩・佐竹家の家臣である常陸徳川家であった。将軍家に遠慮などしそうなものだが、陪臣だからむしろ許されたのだろうか。

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