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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑥――水に沈んだ城――備中高松城

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備中の高松城(岡山県岡山市)は、湿地帯に囲まれた平城である。
永禄年間に豪族・石川久弐が備前の字喜多直家に備えるために築いたとされ、彼の死後はその娘婿である清水宗治が毛利氏に取り立てられて新たな城主となった。毛利氏は備中と備前の国境に七つの城を連ねて防衛ラインを敷いた。これが「境目七城」と呼ばれるもので、高松城はその中のひとつである。
羽柴(豊臣)秀吉の中国侵攻におけるクライマックスの舞台となり、長い戦いの末に開城。備前の字喜多氏の武将がこの城に入っている。この時に城は大きな改築が施され、さらに関ヶ原の戦いののちにも整備された形跡がある。

さて、鳥取城を攻め落としていよいよ中国西部へ侵攻した秀吉の前に立ちふさがったのが、先述した境目七城である。しかし、秀吉の勢いの前には抗しきれず、北端に位置する宮路山城・冠山城が落とされ、高松城の南に位置していた日幡城は織田方に寝返ってしまった。
こうして秀吉は高松城を徐々に孤立させていき、その日前まで迫った。しかし、沼地という天然の要塞に囲まれた高松城を力攻めで落とすのは容易ではない。そこで秀吉は高松城を兵糧攻めにすることにした。それもただ包囲して兵糧切れを待つのではなく、低湿地という地形を逆手にとった水攻めによってより積極的に高松城を痛めつけたのである。いわゆる「高松の水攻め」だ。

秀吉は3キロ弱にわたる大堤防を突貫工事で築かせて近くに流れる川をせき止め、たった19日目には高松城に向けて流れ込むようにした。しかも季節はちょうど梅雨で、さらにその年は大雨であったという。
あっという間に水が溜まり、高松城は水の中に孤立することとなる。急ぎ毛利氏から援軍が送られてくるも、城に近づくことができない状態で、後詰決戦に持ち込むこともできない。全くもってお手上げの状態だったのである。
この水攻めの一方で、秀吉と毛利氏との間に和睦交渉がもたれた。秀吉側の突きつけた「備中・美作・伯者の譲渡」という条件がネックになったかしばらくこの話し合いはもつれたが、秀吉が急邊これを取り下げ、「備中・伯者の半分と城主である宗治の切腹」で決着。これを受け入れた宗治は城を取り巻く人造湖の上に船を浮かべ、一曲舞い踊って後に見事な切腹を遂げたという。

こうして高松城は開城し、城兵らの命は助けられたのだが、実はこの交渉の裏にはひとつの事件があった。
京の本能寺で織田信長が謀反によって倒れていたのだ。秀吉は一刻も早く中央へ戻り、謀反人を倒さなければならなかったのである。そのことを毛利方に知らせないで和睦を成立させた秀吉は、すぐさま取って返して京へ向かった。大規模工事によって損害なく城を落としたことといい、見事な交渉といい、秀吉という男の抜け目のなさが目立った戦いといえる。

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