近江の観音寺城(滋賀県近江八幡市)は、通称「観音寺山」と呼ばれる繖山(きぬがさやま)に築城された山城で、近江の佐々木氏の嫡流である六角氏が居城とした。
東の麓には中山道を見つめ、西には琵琶湖の内湖を見る交通上の要所を押さえており、後に隣の安土山に織田信長が安土城を築いたのも納得の重要拠点といえる。
繖山は南北朝時代からも山砦として使われてはいたが、本格的に城が築かれたのは戦国時代になってからで、全盛期とされる六角定頼(ろっかく さだより)とその子・義賢(よしかた=承禎)の時代に改築されて壮大な石垣(当時普及を始めていた新兵器・鉄砲に対抗するためだったらしい)による補強がなされ、城下町も形成された。
しかし、六角氏がこの城を放棄するとともに廃城になっている。
六角氏がこの城を捨てなければいけなかったのは、1568年(永禄11年)の織田信長による侵攻が原因だった。
信長は足利義昭を奉じて上洛したかったのだが、その進行ルートには信長の上洛に反発する三好三人衆と通じる六角氏と観音寺城が陣取っていた。信長もまずは「近江通過の保障がほしい」と平和裏な説得を試みたが、六角氏側が受け入れなかったので、両者は激突することになった。
時の当主であった義治(よしはる)は「織田軍は観音寺城に攻めてくるに違いない」と判断し、これを防ぐために支城の和田山城を前衛と位置づけ、ここに多くの兵を入れて迎え撃つ構えを取った。
ところが、織田軍はあえて和田山城ではなく、南に位置する支城のひとつ、箕作城を攻めてきた。これは六角氏にとっては全く想定していなかった攻撃で、その日のうちに箕作城は落とされてしまう。
これに大きく戦意を削がれた義賢・義治親子は、観音寺城を出て甲賀に逃げてしまう。六角氏の支配下にあった国人たちの中には彼らに従って逃れた者もいたが、大半のものたちは信長の支配下に入った。
信長がここまで考えて箕作城を攻めたかどうかは定かではないが、敵の予想もしないところを狙う、防御の集中している場所を避けて裏を突くのは、戦術の常道といえよう。