一方、羽柴(豊臣)秀吉の三木城攻めの最中に反旗を翻した荒木村重の籠もった摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)もまた、支城を落とされて孤立し、追い詰められることになった。
有岡城は1574年(天正2年)に村重が入るまでは伊丹城といい、村重によって攻め滅ぼされた伊丹氏の拠点であった。
平城であり、城下町全体を取り囲む惣構えを備えていた。『日本史』で知られるポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが「壮大にして見事なる城」と書き残していることから、結構な規模であったらしい。
村重は信長に忠実で、彼の近畿支配構想において重要な人物だった。そのため、村重の謀反を聞いた信長は最初、その報せを信じなかったといわれている。
なぜ謀反に踏み切ったのか、その理由ははっきりとはわかっていない。しかし、彼が信長の敵である石山本願寺に内応していたことは明らかとなっているため、これが原因だった、という説を取るのが妥当だろう。
ともあれ、信長としては村重を放置しておけない。本願寺との戦い、近畿の支配、中国の侵攻といった信長のプランが大きく揺らぐ可能性があったからだ。そこで、まず有岡城の前衛となる高槻城と茨木城を落としにかかった。高槻城の城主は高山長房(たかやま ながふさ=右近)、茨木城の城主は中川清秀(なかがわ きよひで)である。信長は長房がキリシタンであることを利用して、宣教師を使者として送り説得にあたらせた。「説得が失敗すれば禁教」という条件を信長より課されていた宣教師の決死の説得により、高槻城はついに開城を決意。それに続いて、茨木城も降伏した。
前衛の二城を失った有岡城は、信長の軍に囲まれ他の支城との連絡も遮断されてしまう。信長は孤立した有岡城に猛攻撃を加えたが城側の抵抗は堅く、反撃によりかえって織田軍に被害を出す結果となった。
そこで信長は持久戦に切り替える。有岡城の周りを囲むように砦を築き、大きな包囲網を作り上げた。信長自身はここで陣を引き揚げたため、以降は長男・信忠をはじめとした武将たちが有岡城の攻囲にあたった。
戦況は膠着状態にあったが、籠城戦が始まってから半年以上が経ったある日、事態は動いた。村重が有岡城をこっそりと脱出し、息子の村次が守る尼崎城に逃げ込んだのだ。救援を求めるための脱出だったとも言われているが、村重はそのまま有岡城に戻らなかった。
城主がいなくなった有岡城は、織田軍に内応した者の誘導により、一気に惣構えの中にまで攻め込まれた。町を焼きながら織田軍が本城に迫ってくると、城に残っていた老臣たちは信長との交渉にあたった。その結果、尼崎城と花隈城を明け渡し、村重が出頭するのを条件に、城兵たちの命は助かるということになった。
こうして有岡城は開城し、城兵たちの命は助けられた――で済めば美談なのだが、そうはならなかった。
村重は結局、出頭しなかったのである。こうして村重の親族や家臣、さらにはその家族までもが虐殺されたのだが、村重自身はさらに生き延び、豊臣秀吉に茶人として仕えている。