因幡の鳥取城(鳥取県鳥取市)は1545年(天文14年)に守護・山名誠通が築いた山城だ。
久松山にそびえ立つ、堅固な山城である。戦国時代後期には毛利氏の支配下にあり、「毛利両川」吉川一族のひとり、吉川経家(きっかわ つねいえ)が入って因幡の支配拠点となっていた。
羽柴(豊臣)秀吉によって滅ぼされた後、関ヶ原の戦いののちに池田長吉が姫路から入り、鳥取藩主となって城の大改築を行ったが、明治に破却された。
播磨・備前・但馬で成果を上げた秀吉の中国方面軍が次のターゲットとしたのが因幡であり、ひいてはこの鳥取城であった。しかし、堅い守りのこの城を落とすのは難しい――そこで秀吉は播磨の三木城に続き、再び兵糧攻め作戦を取る。
しかも今回は、あらかじめ因幡中の米を買い占めておき、かつ農民たちを虐待して城に避難するよう仕向けた。兵糧攻めで早く城を落とすためには、城内の兵糧が早く尽きる必要がある。米を買い占めれば備蓄がしにくくなるし、農民が城に入れば兵糧が尽きる速度も早くなる。そのような計算があったわけだ。秀吉は周辺の支城をすべて落として鳥取城を孤立させ、さらに陸路だけでなく海路も封鎖した上で、城を包囲した。戦国時代における攻城戦の中でも一、二を争う悲惨さで知られた「鳥取の渇(かつ)え殺し」の始まりである。
これに対し、籠城側にも勝算はあったようだ。包囲が始まったのは7月だったが、冬になり鳥取が雪に埋もれれば秀吉は退却せざるを得ないだろう、と予測していたのである。しかし、その冬が来るよりもかなり前、9月頃から城内の兵糧が尽き始めてしまう。秀吉の事前の策が功を奏したのだ。
城内では最初は木の皮や草などを食べ、それもなくなると馬を殺して食べた。しかし、やがてそれも尽きてしまうと、今度はすでに死んでしまった仲間の肉を食べるという地獄絵図のような光景が繰り広げられることになる。
ここに至り、ついに経家は開城を決意。城兵たちの助命を条件として、自らは切腹して果てた。
こうして鳥取城は開城し、中国束部の毛利方勢力はすべて失われることになる。秀吉の中国侵攻はいよいよクライマックスに入ろうとしていた……。