上野の箕輪城(群馬県高崎市)は、山内上杉氏の重臣である長野氏によって築かれた平山城である。後に武田氏の手にわたり、さらに滝川氏、北条氏、井伊氏が入城して、北条氏・井伊氏の手で拡張と修築が行われたとされている。
この城は西上野の重要拠点であり、特に戦国時代中期には長野業政(ながの なりまさ)という名将が拠って立ち、甲斐の武田信玄がたびたび侵攻してきてもそれのすべてを撥ね返していた。それどころか、隙を突いては出陣し、武田側の城を落としていたほどである。彼の主君にあたる山内上杉氏の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)は北条氏との争いに敗れる形で越後へ逃れたが、その後も業政は上野に残り、大きな存在感を発していた。
ところが1561年(永禄4年)、その業政が病気によってこの世を去る。
ここぞとばかりに信玄は箕輪城攻略に、ひいては関東進出にと乗り出した。諸城を落として1565年(永禄9年)には箕輪城を孤立状態に陥らせると、ついにその城下に押し寄せる。
これに対して、業政の跡を継いだ息子の業盛(なりもり)が、兵を率いて城の南方に位置する若田原に出陣したものの、兵力に大差があることから、野戦で武田軍に勝つことは難しいと判断。撤退し、籠城する作戦に出た。この時期には越後の長尾景虎(上杉謙信)が上杉氏を継承し、たびたび関東に進出していたため、その援軍を期待したのである。
武田軍はまず、箕輪城の周囲に築かれた砦や支城を落としていき、それが終わると箕輪城を取り囲んで総攻撃を開始。しかし城の守りは堅固で、なかなか落とすことができない。
箕輪城方としては上杉氏から援軍が送られてくることを信じて耐えたものの、3日目になっても助けが来る気配はなかった。援軍が来ないことを知ると、業盛はこの戦いに勝ち目はないと悟り、一族で自刃。信玄に苦戦を強い続けた箕輪城はこうして陥落したのだ。残されたものたちの奮戦はありつつも、名将によって守り続けられた城なだけに、それを失ってしまえば守り続けるのは難しかった、ということなのだろうか。