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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

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優れた城、およびそこに籠もる城兵たちの奮闘があれば、何倍という敵を受け止めて時間を稼ぐ――場合によっては逆撃で損害を与えて撤退に追い込むことは十分に可能だ、というのはここまで見てきたとおりだ。
しかし、どれだけの名城であっても、いつもいつもうまく城を守れるわけではない。圧倒的な物量で押しつぶされたら、あるいは何らかの策略によって城の防御能力を奪われてしまったら、それまでのように敵を押し返すのはなかなか難しい。ここからは、そんな奮闘むなしく敗れた城のエピソードである。

大坂城と同じく「難攻不落の城」といわれた小田原城だが、どれだけの名城でも、それ以上の力で押し込まれれば守りきれないものである。
ことの始まりは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が発した上洛命令に、北条氏が背いたことにある。姻戚関係にあった徳川家康の仲介があり、北条氏政・氏直父子のどちらかが上洛するという約束を取り付けたものの、同年北条氏が上野の名胡桃城を真田氏から奪ったという報せが入る。これは秀吉の定めた惣無事令を違反しているとして、ただちに諸大名に北条氏討伐のため出陣を命じた。

かくして1590年(天正18年)、秀吉の命を受けた西国や北陸の諸大名が出陣、いくつかのルートを経て関東にたどり着き、支城を落としながら小田原城に迫った。
これに対して北条方は、主だった諸将らを小田原城に集め、また下田城や韮山城にも兵を集めた。上杉謙信や武田信玄を撃退した時のように、今回も籠城戦で対抗する作戦であった。
しかし豊臣方の軍勢はあっという間に小田原城を取り囲んだ。持久戦に持ち込まれる中、城内では抗戦と和睦で意見が分かれ、いつまでも終わらない評定に、次第に城内の戦意は失われていき、兵糧も尽きてきた。余談だが、この時の評定の様子から「小田原評定」という、長引いてなかなか結論の出ない会議を意味する熟語ができた。

これで立て籠もり続けることによって情勢の変化が起こればまだよかったのだが、豊臣方にそのような隙はなかった。秀吉にとって経済力と兵靖を重視するのは信長譲りの戦い方であり、この小田原攻めも圧倒的な経済力がバックボーンとしてあったから、長囲がよほど続いても秀吉が撤退に追い込まれることはまずなかったろう。
そこに小田原城内では重臣が敵方に内通するなどの裏切り行為もあったことから、北条氏はついに降伏を決めた。当初は開城の条件として氏直が自刃すると申し入れたが、秀吉は彼を高野山に追放することで許し、代わりに父・氏政と叔父、重臣らの自決を命じる。こうして北条氏は滅んだのだが、のちにその血筋のものが復興を許され、江戸時代に入っている。

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