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【クーデターで読み解く日本史】南北朝時代の幕開けとなった大乱――延元の乱(建武の乱)

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1335年(建武2年)~1336年(延元元年) ○足利尊氏 ×後醍醐天皇

後醍醐天皇は鎌倉の足利尊氏を打倒するべく新田義貞(にった よしさだ)率いる軍勢を送り出した。
当初、尊氏は天皇と対立することに迷って出陣しなかった。しかし、代わりに戦う弟の足利直義(あしかが ただよし)が苦戦していると知るや重い腰を上げ、義貞の軍勢を打ち破る。
その勢いを駆って近畿へ進軍し、ついに京を占領するが、ここで攻守が逆転してしまう。

天皇方の有力な武将である北畠顕家(きたばたけ あきいえ)はこの時陸奥にいて、天皇の命を受けて尊氏打倒のために動き出していたのだが、到着の遅れていたこの軍勢がようやく京へやってきたのである。
顕家と義貞、またゲリラ的戦術で鎌倉幕府打倒に活躍した楠木正成ら天皇方は、守るのに向いていない京にこもる尊氏らの軍勢を撃破、京より追い落とすのだ。

総大将である尊氏が3回も自害しようとしたというほどの劣勢の中、どうにか落ち延びた尊氏方は天皇方の追撃に晒されつつ西へ向かって敗走していく。
この途中で尊氏は持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)からの院宣(いんぜん=上皇・法皇の命を奉じて出す文書)を受け取って政治的正当性を獲得しており、これは厳しい情勢の中での光明となった。

尊氏が再起の地として選んだのは九州である。
ここで尊氏らが1千あまりのわずかな手勢で4万とも6万ともいう天皇方の軍勢を破ったのが、多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)だ。この時、天皇方の軍勢は強烈な向かい風にあって身動きがとれず、また士気の低さから寝返りが続出し、それが敗因になったのだと伝わる。
そして、この九州で多くの味方を獲得して力を蓄えた尊氏は、陸上からは直義が、海上からは自分が、と二手に分かれていよいよ京への進軍を始めた。

これを迎え撃つ天皇方では、正成が尊氏との講和を主張し、これを退けられた後も守るのに向かない京をいったん捨て、尊氏らが入ったところを取り囲んで攻める策を提案したが、やはり却下されてしまう。
結局、足利兄弟の軍勢と新田・楠木軍の軍は摂津の湊川(みなとがわ)で激突する。この湊川の戦いではまず新田軍が崩れ、一方で楠木軍が奮戦して一度は直義の軍勢に手痛い打撃を与えるも、結局正成は自刃に追い込まれてしまった。

勝利した尊氏方は再び京へ入り、持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を即位させ、自らの政治的方針である建武式目(けんむしきもく)を発表した。ここに室町幕府が発足したのである。
しかし、動乱はこれでは終わらなかった。尊氏らに捕らえられていた後醍醐天皇が京を脱出、吉野へこもって尊氏や光明天皇との対立姿勢を鮮明にしたのだ。

こうして持明院統の天皇(北朝)およびこれを擁する室町幕府と、大覚寺統の天皇(南朝)が対立する南北朝動乱の時代が始まったのである。

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