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最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

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最上義光の居城として知られる山形城には瓦葺きの御殿はあっても石垣はないとか、全国的に見ても少し変わった特徴が見られます。なぜこういう矛盾(いびつな進化)が見られるのかについて考察されている、いちなんさんに寄稿いただきました。

今年の花の見納めにと、山形城外堀の花筏を見に行く。
ここの八重桜は見事だから、さぞや花筏も立派であろうかと。わざわざ前泊し、山形駅西口のビジネスホテル(じつはここも城内で、仙山線は城の外堀を走っている)を4時半に出て、山形城の外堀に行くと、何と花筏は山形市役所によって撤去されていた。

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この城ほど市役所に愛される城はない。いつ行ってもどこかで必ず発掘をしている。その成果は、城内の公園内に展示されているが、最近の発掘でこの城の本丸御殿の瓦が、聚楽第の最上屋敷にあったものと同じものであることまで突き止められたという。
一般に、城が中世城郭から近世城郭に進化するには、①土塁から高石垣へ、②掘立から礎石建築へ、③茅葺から瓦葺へという変化が生じるが、この変化は同時に生じるのではなく、この①から②を経て③、の順に起こる。
つまり城の防御機能を高めて後に、装飾性を高めるという順であり、これは戦国大名にとっては合理的な選択である。

ところが、山形城はこの順が真逆である。なぜこんなことが起こったのか。
このことは、九鬼周造が「いき」の三要素のひとつとした武家の「意気地(いきじ)」から考えてよいのではないか。最上義光は伊達政宗と同じく、豊臣秀吉の奥州仕置で中央政権の軍門に下った。しかし、文化的には何としても中央政権にキャッチアップしようとした――たとえ土塁のなかの堀立小屋に場違いでも、京の瓦で山形城本丸御殿の屋根を葺こうとした――それが今も山形城二の丸で騎馬を巧みに操り、陣頭指揮を執る最上義光の意気地だろう。

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そもそも最上氏は、遡れば足利一門の筆頭である斯波氏から分かれた羽州探題の家である。
藤原北家の出を自称するものの素性が不明な伊達家、ましてや尾張の農民から成りあがった豊臣家とは違い、かつての中央政権まで家系を遡ることのできる奥州きっての名家である。だから最上家は、たとえ礎石がなくとも、石垣がなく土塁づくりの城でも、本丸御殿の屋根は京の瓦で葺かなければならなかった(いかに倒壊の恐れがあったとしても)。
実際、山形城の本丸は高石垣となっているのは、大手門に至る一文字橋が架かる部分のみで、あとは土塁のままであり、はじめから場違いだらけにできた城である。

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また二の丸石垣も最上時代ではなく、最上が山形を去ったのち入城した親藩・譜代大名が整備したものである。
江戸期になると山形城は会津若松城と並んで伊達家への重要な抑えとなった。だから、逆に江戸初期に高石垣で武装することになった。
たとえば、家光の異母弟・保科正之は、高遠→山形→会津と転封を重ね、兄のため文字通り徳川の藩屏となる堅城を築いた(そして、それが200年後に戊辰戦争における会津の悲劇を生むことになるとも知らずに)。

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過去の名門の矜持を胸に、成り上がりの豊臣政権への文化的キャッチアップをはかった最上の意気地、その豊臣政権から権力を奪いながらももう一人の奥州の覇者に怯えた徳川政権――この2つの政権のふるまいが山形の地に異形の城を生んだのであり、それゆえ山形市役所も発掘をやめられないのかもしれない。

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