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明智光秀と覚恕法親王――あるいは比叡山焼討ちの真実

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覚恕は皇族出身の天台宗僧侶だ。一般に「覚恕法親王」と呼ばれる(法親王は出家した皇族が親王宣下を受けた場合の呼び名)が、史料を調べても親王宣下を受けた痕跡が見つからない。
このように呼ぶのは後世の通称であろう。ただ、准三宮、つまり太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に準ずる称号の宣下は受けていて、その省略形である「准后」の名では呼ばれたようだ。

彼の名前は1571年(元亀2年)のある有名な凶事と関係して語られる。
すなわち、織田信長による比叡山焼討ちだ――。
覚恕の父は後奈良天皇である。彼は正親町天皇の弟にあたるわけだ。
しかし、藤原一族の女性を母に持つ兄に対して、覚恕の母は小槻雅久女の伊予局ということで決して高い身分の人ではない。生まれた時から彼に天皇になる目はなかったと考えるべきだろう。
このような男子が生まれてすぐ僧侶の道を進むのは当時なら当然のことだ。幼くして比叡山延暦寺曼殊院門跡にて得度(僧侶になること)を済ませている。なお、門跡は皇族や貴族が開いたなどの由縁を持つ特別な寺院のことで、宗教と皇族・貴族が縁深かったことがわかる。

そんな彼が天台宗のトップである天台座主の座に着いたのは1570年(元亀元年)のことだが、翌年にはすぐに大事件が起きる。
織田信長の軍勢が延暦寺に攻め寄せてきたのだ。その背景には前年、織田と敵対する浅井・朝倉の軍勢が一部比叡山へ立てこもって戦おうとしたことがあり、さらに遡れば織田家が延暦寺の寺領を奪っていたことがあったのだと思われる。
浅井・朝倉を庇ったことを敵対勢力への肩入れとみた信長は激怒し、「せめて中立を保たねば焼き払うぞ」と威嚇したが延暦寺側が何の反応も示さなかったので、ついに攻撃を決断した、というわけだ。

このときに信長の軍勢(光秀が重要な役を果たしたとされ、いわゆる光秀ものでもターニングポイントとして描かれることが多い)は比叡山全土を焼き払い、僧侶もそれ以外も男女まとめて三千人を殺したと伝えられる。
仏教の聖地に押し入っての残虐な振る舞いは後世に信長が残忍な武将として語り継がれるにあたって重要なエピソードとなった。
ただ、近年になってこの印象が変わってきている。まず、そもそも「延暦寺側が宗教的以上に政治的な存在となっていて、信長としては戦わざるを得なくなっていたこと(既に書いたように領地を巡る争いもあった)」「僧侶たちが大いに堕落し、世俗化していたこと」が、以前から主張されていた。
加えて、発掘調査の結果、実はこのときに燃えたとされていた施設は実際にはもっと前に失われていて、信長の攻撃による被害は限定的なものだったのでは、と考えられるようになっているのだ。

延暦寺焼討ちのとき、覚恕本人は直前に上京しており、難を逃れたようである。
その後、延暦寺衆徒の頼みを受けて武田信玄に延暦寺復興を申し入れているが、実現していない。信長の生存中は延暦寺復興が叶うことはなく、秀吉や家康の時代を待たねばならなかった。
覚恕自身はそれを見ることはなく、比叡山焼討ちの3年後にはこの世を去ったという。

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