【時期】1710年(宝永7年)
【舞台】桑名藩
【藩主】松平定重
【主要人物】野村増右衛門
復興事業に活躍した能吏への疑惑
3代藩主・松平定重の頃、桑名藩は多くの天災に見舞われていた。
巨額を投じて開発していた新田が洪水によって破壊されただけでなく、1701年(元禄14年)の大火事では城下町の半分が焼失する大被害を出した。元々財政が逼迫していたところ、復興のために更なる費用が必要になって、藩の借金は1万両という巨額に膨らんでしまう。
この時期に活躍したのが野村増右衛門吉正という人物である。復興事業に従事した彼は優れた能力を発揮し、河川工事、農地開発、道路補修――現代でいうところの公共事業に該当する工事を数多くこなし、多大な名声を獲得した。
その結果、はじめは8石2人扶持の郡代手代であった増右衛門は、最終的に750石の郡代にまで昇進した。当時、1000石を超えるのは家老に匹敵する家臣だけだったとされているため、この時期の彼は家老格に次ぐほどの実力者にまで出世をしたということになる。
ところが1710年(宝永7年)、増右衛門の運命が暗転する。
彼はこのとき藩金2万両を調達するために上洛していたのだが、公金横領、農民からの搾取、権力の行使による一族の藩職への登用など、さまざまな嫌疑をかけられて逮捕されてしまったのだ。
本人にとっては思いもよらぬことであり、必死に弁解をしたという。しかし、会計上の些細な点への指摘には回答できず、同年に死罪となってしまった。
これに関わったとして一族44人も死刑、関係した藩役人370人(一説に570人とも)も死刑もしくは追放・罷免などに処された。
異例の大出世に対する些細な嫉妬が原因
なぜこのような騒動になってしまったのか。
そもそもの原因は増右衛門が果たした異例の大出世にあった。これを妬んだ桑名藩士たちが小さな失敗に目をつけて、彼を訴えたのだ。こんな些細なことから事件が膨れ上がり、「野村と親しくしたから」という理不尽な理由で処罰された者もいるような大騒動になってしまったのである。
このような大規模な騒動を起こした責任を取らされるかたちで、藩主の松平定重は越後高田藩へと移封されてしまった。小さな嫉妬からも大事件は起きる、という見本のようなケースである。
事件に際して、藩は増右衛門に関する資料を破棄してしまった。そのため、増右衛門がいったいどこまで復興事業に関わったかははっきりしない部分が残っている。
それでも1823年(文政6年)になると、増右衛門の事件が冤罪であつたことが発覚。彼の名誉も回復された。
1827年(文政10年)に作られた罪なく死んだ増右衛門の一族44人の法名が刻まれた供養塔は現在も残されており、理不尽に亡くなった人たちを慰めている。