徳重聡さん演じる藤田伝五(行政)は『麒麟が来る』序盤から登場する脇役だが、じつは下級武士として武士の世界も庶民の世界もわかって両者をつなげる重要なポジションのバイプレイヤーであることは、視聴者の皆さんならすでにご存知のはず。
では、歴史的に藤田伝五とは一体何者なのか。もしかしたら菊丸のような架空の人物かと思った人もいるかもしれないが、そうではない。彼の名前は比較的信憑生のある歴史資料である『信長公記』ほかに出てくる。それによると、「本能寺の変」を起こす直前、光秀は四人あるいは五人の股肱の臣にだけ自分の本心を打ち明けた。その中に藤田伝五の名前があるのだ。
しかし、その藤田伝五の生涯がどうであったのかというとこれがよくわからない。特に前半生は資料が少なく、一般には美濃衆あるいは明智の譜代衆であるとするが(『麒麟が来る』もこう解釈している)、根拠に乏しい。
じつは滋賀県守山市水保には伝五を含む藤田一族の末裔たちが今も暮らしており、そこに18世紀後半に成立したと考えられる「藤田系図」が伝わっている。これによると、伝五には伝三行久、彦兵衛尉貞孝という兄弟がいて、父は佐々木定頼(六角定頼)の家臣・藤田五兵衛尉貞長であった、という。では伝五は近江の藤田一族出身で確定なのか(そういえば光秀にも近江出身説がある)というと、伝三と伝五は元々同族ではあるものの後世になって系譜に付け加えられたのではないか、と指摘されている。
さらに、1573年(元亀4年)の戦で死んだ明智家臣の記録の中に「藤田伝七」の名が序列の低い家臣として記載されていることから、伝三・伝五・伝七の藤田兄弟は近江に比較的縁の深い新参者であったのではないかという説があるのだ。現時点ではあくまで可能性に過ぎないし、伝七が伝五とは無関係であるとか、元亀4年の討ち死に時点で伝七が若かっただけとかの可能性も十分あるが、今後の研究に期待したい。
ともあれ、明智家臣としての藤田伝五が活躍し、出世し、本能寺の変ごろまでには家中で重要な位置をしめたのは間違いないだろう。数々の合戦に参加し、「山崎の戦い」では手傷を負った。どうにか淀までは退いたものの、そこで自決して生涯を終えた、という。