数々の隆慶一郎作品を紹介してきた本連載もこれにて完結となる今回は、『見知らぬ海へ』を紹介したい。晩年の隆慶一郎が取り掛かり、しかし夢半ばにして中断した作品の一つだ。
主人公は戦国時代末期に活躍した徳川水軍の長、向井正綱。物語はまだ向井家が武田水軍に属していた頃、徳川家(!)の攻撃によって向井家が多くの犠牲者を出したところに始まる。釣りに出ていたら城が攻められていた、という冒頭エピソードが非常に衝撃的だ。
やがて雄々しく成長した正綱が数々の功績を挙げ、徳川家と和解し、押しも押されもせぬ水軍大将として遥かな彼方のヨーロッパからやってきた船乗りたちと出会うところで残念ながら著者逝去につき断筆となっている。
そもそも、隆慶一郎という書き手を知る人なら、「海賊」「水軍」というテーマにいつか手をつけるであろうことは自明の理であったはずだ。何しろ、その長くない作家人生においてただひたすらに漂泊の民、無縁の民を描いてきた人なのである。それは作品ごとに傀儡であったり忍者であったり山窩であったり職人であったり武芸者であったりして、彼らの道理が定住民やその支配者である武士の道理と衝突する様をずっと描いてきたわけだ。
しかし、漂泊・無縁の権化といえば、やはり海で暮らす民であり、海賊・水軍であろう。彼らはその気になればどこへでも行くことができる。その代わり、船が沈めば全滅だ。故に独特の価値観と観念を持ち、陸の大将の命令にも必ずしも従わない。
実際、作中ではしばしば陸の道理と海の道理が対立する様が描かれており、なによりも本多作左が正綱を「海の家来」と呼ぶシーンが非常に象徴的だ。武田の家来でも徳川の家来でもなく、海の家来なのである。このような海賊・水軍の感覚はやがて太平の江戸時代の中で消え去り、陸の武士と変わらないようになっていく。これは隆慶一郎が書いてきたテーマとそっくり重なるもので、放っておくはずがなかったのだ。
しかし返す返すも残念なことに、物語は本当に盛り上がるべきタイミングに入ったところで永遠の中断となってしまった。『見知らぬ海へ』という言葉の通り、ヨーロッパ人との出会いから未知の海へ漕ぎ出す展開が待っていたはずなのに、その可能性は永遠に失われてしまったのである。
果たして、隆慶一郎は海とそこに生きる人々を題材にして何を書こうとしたのか。私たちにできるのは、見知らぬ海の向こうに見果てぬ夢を見ることばかりである。