松平忠輝。この歴史上の人物の名を知る人はあまり多くないかもしれない。徳川家康の六男だが、父のもとでは育てられなかった。「捨てる」という儀式的な扱いを受けた上で皆川広照という大名に預けられ、養育された。どうしてこんなことになったかというと、母の身分が低かったのと、容貌が恐ろしかったのが原因のようだ。
しかし、父に嫌われてもなお、忠輝は天下に名を知られた教養人として成長した。父・家康が関ヶ原の戦いで天下人になったこともあって、息子の彼も大名となり、越後国高田藩主として「越後少将」と呼ばれた。ところが大坂の陣での振る舞いを問題視されて幽閉状態に追い込まれてしまい、92歳で死ぬまでそのままであったという。
隆慶一郎はこの人物の生涯と逸話に目をつけた。彼の目に映る松平忠輝は「鬼っ子」であった。人間離れした、鬼としか思えぬ絶大なエネルギーを生まれつき持った存在が、よりにもよって天下人の子として生まれたなら、当然周囲との間に確執も生まれるし、時には命を狙われるようなこともある。それは不幸なのか、それとも幸福なのか……。
絶大な能力と独自のポリシーを持つ個性的なキャラクターを主人公に据え、彼がいかに周囲に影響を与えていくのかを描くのは隆慶一郎の十八番だ。中でも本書は忠輝が大名の座を追われるまでの半生を丁寧に描いているのが特徴である。
当初は人がましいところが薄く、人間社会や人情の機微もいまいち理解できなかった忠輝が、大事な人々との出会いと別れ、人間が持つ理不尽な感情、社会のうねりといった様々なものと出会い、触れ合っていくことで人間性を身につけ、人格を練磨され、優れた技術やセンス、知識を身につけ、喜びや悲しみを覚え、ひとつの時代に二人といない偉大な人物になっていく。
しかしそのことは彼が歴史を動かす人物になることを意味しない。むしろ大きなことをなすのは彼に軽蔑されるような醜い心の持ち主たちであって、忠輝自身は己の心のなすまま、大事な人たちを守るために行動し、それゆえに優れた力を持ち周囲の人々に期待されながらも、むしろ自ら進んで「歴史の敗者」というべきポジションに身を置いていく。
それは史実との辻褄合わせのためでもあるのだろうが、決してそれだけではないはずだ。優れて賢い人は、時に愚かと見える行動をとることがある。だが、それは彼が彼であるために必要なことであり、誰が蔑んでいいことでもない――そんな作者の主張が浮かび上がってくるように、私には思えるのだ。
また、この作品は『影武者徳川家康』とほぼ同じ時代を取り扱っているので、ある種表裏一体ともいえる関係になっている。家康が影武者であるという設定はこの作品では見えてこないが、終盤に明らかに両作品がクロスオーバーするイベントがあるのだ。
徳川家康(の影武者)というまさに時代を動かす側と、大名ではあるけれどその精神はあくまで鬼っ子で自由人の忠輝では、見えるものが違う。感じるものが違う。重なりつつも違う物語も楽しんでほしい。