ちなみに信長の直轄領は100万〜150万石ほど、秀吉は200万〜220万石ほどと言われますが、いずれも金山・銀山を押さえていたので実質的な収入はそれ以上あったようです。その点は家康も同様で、石高だけでなく鉱山や港を支配することが重要でした。
来年の大河ドラマ「光る君へ」の予習を兼ねて、榎本先生に「藤原氏の誕生と道⻑・紫式部の時代」というテーマで、藤原氏の歴史と藤原道長や紫式部が生きた時代について教えていただきました。
近年では家康も石田三成も秀吉の渡海を諫止するために協力しあったと考えられているそうですね。むしろ代わりに自ら渡海した三成の責任感や覚悟がすごいなと感じます。三成はほんとに優秀な人だと思いますが、こういう裏方の仕事ってなかなか評価されないん…
「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは広島県の福山城。昨年リニューアルしたばかりなのでこれから訪問を計画されている方も多いと思いますが、ぜひお土産には城もなかを。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!
太田道灌が本拠にして、その後は北条氏の支配下にあった江戸の地が発展していないわけないのですが、近年まで寒村だと信じられてきたというのはおもしろい話ですし、まだまだ誤解されたままの歴史があるのでしょうね。
そもそも五大老(五人の衆)は秀吉の死の直前に制度化されたもので、そのメンツも秀次事件後に連署したメンバーでした。当時は小早川隆景が5人に入っており、彼の死後に上杉景勝が加わっています。 秀吉は家康と利家を特段重視していたようで、ふたりが死去…
家康が入封した江戸は寒村だったという説は現在完全に否定されていますが、それでも土地との結びつきが強かった徳川家臣団にとっては厳しい処置だったと思います。秀吉は井伊直政や本多忠勝などの領内配置についても細かく指示を出したそうで、家康にとって…
徳川家臣団において古参が幅を利かせる、みたいなことがどれほどあったのかはわかりませんが、井伊直政が四天王に数えられるほどの扱いを受けたことを見ても(寵童だったかはさておき)それなりに実力主義が浸透していたようにも思えます。むしろ家臣団が巨…
表裏比興の者として知られる真田昌幸に徳川軍は敗退します。だったら家康自ら指揮をとり、上田城を攻略すれば勝てたのではと思うのですが、状況がそれを許さなかったということでしょうか。ここで家康が出陣していれば歴史は変わったと思うんですけどね(家…
連載中からたくさんの質問が届きましたので、時田学芸員に回答していただきました。ぜんぶで18000字におよぶ、読み応えたっぷりの質疑応答となっていますので、ぜひお読みください!
まさに右腕として家康を支えてきた石川数正の出奔は、この連載でも最高レベルの謎のひとつだと思います。交渉役が板挟みになって味方からも責められ(結果的に)敵方に走るという構図はのちの片桐且元に似てますね。
「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは九州。メジャーなお城だけでなく、天ヶ城や岸岳城といったお城へ足を向かわせるのも城もなかの引力ですね。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!
徳川家康は学問のみならず、武術においても達人レベルだったそうです。身体を動かすというちがいはあれど、多くの師匠に師事して学び、身につけるという点ではどちらも共通しているのかもしれませんね。 神君として盛られたエピソードも多そうですが、家康と…
この連載もついに最終回です。ぼくは毎回「戸切地陣屋すごい!」「戸切地陣屋に行きたい!」と思いながら読んできましたが、みなさんはいかがだったでしょうか。 質問や感想もぜひお寄せください!
今回は「戦国大名はなぜ名字を変えるのか」について榎本先生に教えていただきました。松平から徳川に改姓した家康だけじゃなく、上杉謙信や明智光秀など名字を変えた戦国大名・戦国武将は多いですよね。
西洋の築城術を学んだ英才・藤原主馬によって築かれた〈日本初の星形城郭〉戸切地陣屋でしたが、最先端の理論を誰もが理解できるわけもなく、教本を無視した改変がおこなわれます。 急速な改革が失敗するのはよくあることですが、国家存亡の危機を前にゆっく…
城もなか研究の第一人者である城葱さんの情熱は留まるところを知らないようで、今度は最近全国で増えつつある城もなかのアレンジ商品「進化系城もなか」をリサーチされました。城もなか同様、一覧表とマップを作っていただいたのでぜひご覧ください!
戸切地陣屋はどのくらい原典であるサヴァール教本の内容を反映しているのか。時田さんの調査によれば城が築かれた「野崎の丘」の自然地形もうまく活用し、かなり忠実かつ正確に再現していると言えるそうです。
家康にかぎらずこの時代の名君と呼ばれるような人は、有能なスタッフを集めて強いチームを形成してましたよね。 ゲームだと武力の能力値に目が行きがちですが、じっさいには統治や内政を支えたブレーンたちが為政者には不可欠でした。
日本のお城の魅力はいわばひとつとして同じお城がないという個性にあるわけですが、西洋では体系だった理論や学問として築城術が発展しました。その結果としての稜堡式城郭であり、戸切地陣屋は日本ではじめてその理論を輸入したお城ということです。
今回は島田市博物館の岩﨑学芸員に今年で築城450年を迎える諏訪原城について教わります。武田勝頼と徳川家康によって争奪された歴史を知ると、現地を訪問したくなりますね。
そもそも稜堡式築城術とはどういうものなのか? 西洋といってもどこの国で生まれたのか、いつ誰が考えたのか、またその専門的な学問がどのように日本に持ち込まれたのか、考えてみると謎だらけですよね。ヴォーバンとかサヴァールとかお城の話にフランス人の…
レゴジャパンから8月1日に発売された大人向けレゴ®セット〈レゴ®アーキテクチャー 姫路城〉をご提供いただいたので作ってみたのですが、かなりの再現度なので本物の姫路城の写真と比較してみました。
ついに戸切地陣屋が完成します。ぼくは稜堡がひとつしかない点を見て松前藩は予算不足だったのかなと思っていたのですが、じつはひとつあれば十分防衛できる最高の立地に築いているそうです。今回は図解も多く、稜堡式城郭がどうやって守備をするのかがよく…
ルイス・フロイスが書いた『日本史』に家康が信長の「義弟」という記述があるそうです。 三国志の劉備たちが義兄弟を名乗ってるように、姉妹との結婚がなくても義弟と呼ぶことはあるので、おそらくそういうニュアンスなのでしょうが、この当時のポルトガルや…
佐久間象山のもとで洋式軍学を習得した藤原重太(主馬)は藩主・松前崇広により西洋流砲術師範として任命されます。開明的な藩主が英才を重要ポストに抜擢する構図は明るい未来を想像させますが……。
今回の攻城団テレビでは「どうする家康」で忍者考証を担当されている山田雄司先生と編集者の佐藤強志さんをゲストにお招きして、忍者についてお話を伺いました。
今回はじめて知ったふたりの親子――藤原正蔵と藤原重太(主馬)の名前をぜひ覚えていってください。正蔵は間宮林蔵に同行し、重太は佐久間象山の弟子なので、有名人のすぐそばにいたふたりなのです。
まずは戸切地陣屋が築かれる前日譚として、幕末における松前藩の状況について。ぼくは松前藩が一時期、東北に移封されていたことも知らなかったのですが、これって有名?
よく言われる家康の三大危機のひとつが伊賀越えです。 個人的には本能寺の変のあと、ひとりでも味方が欲しい光秀に対して(ウソでもいいので)同盟の申し出をすれば東海道を素通りさせてもらえたのではないかと思うのですが、混乱中で交渉の時間もほぼない状…