結局、徳川家康は三方ヶ原の戦いに敗れた。
命からがら生き延びた家康は浜松城へ逃げ込むと、その時の自分の憔悴しきった顔をわざわざ絵として描かせた。己の慢心を戒めるためのものであり、以後生涯を通してその絵を持ちつつづけた、という。
この絵は現在徳川美術館に収蔵されており、正式名称は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」だが、家康が顔をしかめていることから「しかみ像」と呼ばれるのが一般的である。
なお、この話については「絵に描かれた時、家康は恐怖のあまり脱糞していたが、部下にはそれは焼き味噌だと嘘をついた」というユーモラスなエピソードとセットで語られることが多いようだ。
では、家康は本当に敗戦直後に己の姿を絵で描かせたのだろうか? 実のところ、この話は疑わしい。そもそも信憑性の高い資料どころか、『三河物語』のような軍記物にさえ、このエピソードが見当たらないのだ。
さらに言えば、紀州徳川家から尾張徳川家へ伝わったこの絵は、明治時代頃には「長篠戦役図」、つまり長篠の戦いの頃の家康の絵だと考えられていたのである。これがのちに「徳川義直(家康の子で尾張藩祖)が描かせた」ものになり、三方ヶ原云々という話も入ってきて、ついに先ほど紹介したようなエピソードが形成された、と推測されている。
なお、脱糞のエピソードも後世の創作であろうと考えられている。
こちらについては、『改正三河後風土記』という江戸末期の史料に、三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦い(武田軍から二俣城を守るための戦い)での出来事として似たような話が収録されており、これを元に作られたのではないか、という。