1579年(天正7年)、徳川家中で悲劇的な事件が起きた。
家康が嫡男で岡崎城主の信康に切腹を強要して死に至らしめるとともに、その母で正室の築山殿を殺害させたのである。
通説では、家康は同盟者・織田信長の要求によってやむなく妻と息子を殺さざるを得なかったという。
というのも、信康が正室として迎えた徳姫(信長の娘)と、家康(当時は浜松城を本拠)との不仲から岡崎にいた築山殿の関係が悪化した末、徳姫が父・信長に不満を訴えることになってしまったからだ。
その内容が単に義母への不信、あるいは夫との不仲(男児が誕生しなかったのが原因とも)であったなら、現代でもよくあるような話である。しかし、築山殿が織田・徳川連合の共通の敵である武田勝頼への内通を図っている……という内容があっては、信長も放置できない。信長の不信を解決するために、家康は泣く泣く妻と息子を殺させた、というわけだ。信康の日頃の振る舞いに問題が多かったことも後押しになったとされる。
このいかにもドラマチックで、「耐える家康」のイメージを増幅させる通説に対して、近年の説では信康と築山殿の死の原因を徳川家中の対立に求める。
当時の徳川家は長く武田家と戦争中であり、その負担は決して軽いものではなかったが、家康は織田・北条と結んで武田と戦い続ける方針を堅持していた。一方、信玄亡き後の武田家も領地こそ拡大しつつも実質的には窮地に陥りつつあり、武田・徳川の和解は決してない話ではなかった。そのため、徳川家中の一部に武田との和解を模索する動きが現れたのだ。そしてその一部こそ、信康と築山殿だった、というのである(さらに一歩進んで、家康を中心とする浜松派閥と、信康を担ぐ岡崎派閥の政治的対立があったという見方もある。主君と嫡男がそれぞれの派閥に担がれて好まざる対立を演じるのは、戦国時代にもよく見られることだ)。
前述したような信康・築山殿と徳姫の不仲および徳姫から信長への訴え自体はどうも実際にあったらしい。
しかし、家康が息子と妻を殺そうと決断した原因は、信長からの強要ではなかった。戦国大名として、自分の決めた外交方針を勝手に覆そうとするものを決して許すことができなかったのだ。
それが、例え大切な肉親であったとしても。……以上が、近年の有力な説である。