桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、家康は大高城を引き払って故郷の岡崎へ向かった。
ところが父の城であった岡崎城には入らず、まず松平氏の菩提寺である大樹寺へ入る。当時の岡崎城には今川方の城代が入っていて、家康がそのまま入ることはできなかったからだ。
その城代が駿河の方へ引き上げていく。つまり「捨てた」ということだ。捨て城であるなら拾ってしまっても構わないだろう――そのように理論武装、言い訳を用意した上で、家康は岡崎城に戻った……以上が、いわゆる通説における家康の岡崎城への帰還である。
これは「家康はあくまで松平氏の当主という独立した武将で、今川には人質として捕えられ、従っていたに過ぎない」という視点で考えれば特に違和感のないストーリーだ。
しかし、史実において家康が人質とは言い難い存在だったのはすでに見てきた通りである。家康は駿府で育ち、今川のもとで教育を受けた。彼自身の帰属意識も今川にあったと考えた方が自然だ。そんな彼が、どうして馴染み深い駿府ではなく、縁遠い岡崎へ向かったのだろうか?
今川への帰属意識がさほど強くなかったり、野心があったりして、当初から独立するつもりで岡崎へ向かった……こう考えると従来説に問題なく接続できる。
だが近年になって別の説も浮かび上がっている。家康が岡崎へ入ったのは今川の武将として、氏真の指示があってのことだった、というのである。当時の三河は大いに混乱していたので、その状況を落ち着かせるための緊急人事として家康が岡崎へ入ったと考えるわけだ。
じっさい(ドラマとは違って)家康の妻と娘は早い段階で駿府から岡崎へ送られた(跡取りの竹千代だけが人質として残った)ことが近年分かっている。つまり、氏真は家康を信頼し、最前線である岡崎を任せたわけだ。
その家康がやがて今川からの独立を考えることになる。
理由は、西三河における今川系勢力が劣勢に追い込まれていったことだ。当時の氏真は甲相駿三国同盟履行のため、上杉謙信と戦う武田や北条への支援に力を割く必要があり、西三河へ援軍を送ることができなかった。
孤立した家康はすでに織田と結んでいた伯父・水野信元の縁も辿って織田信長と外交交渉をはじめ、おそらく1561年(永禄4年)には織田との同盟を成立させたものと考えられる。これは当然、主君であった今川との断絶を意味していた。
なお、通説では翌年(永禄5年)に尾張の清洲城で家康と信長による直接会談が行われて同盟が成立したとされているが、これは後世の創作であり、同盟の時期はより早く、また直接の会談も時期的にあり得なかったろうと考えられている。