攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」の動画を公開しました

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

攻城団テレビに新しい動画「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」を公開しました。

なぜ嫁の実家が強いのか、という素朴な疑問がありました。
源頼朝の場合は家族がいなかったので(のちに源義経などの兄弟が参集しますが)奥さんの実家である北条氏が肉親代わりとして権力を握るのはまだわかるのですが、歴史を振り返ってもこの北条氏だけでなく蘇我氏や藤原氏などが天皇の后の実家として権力を牛耳っています。また平清盛が娘を天皇に嫁がせて、次の天皇の祖父になろうとしたのもみなこの「外戚」という立場を狙ってのことでした。

今回、榎本先生にこの権力を握り、権力を維持するシステムとしての外戚について教わってみて、それが院政を生み出したり、あるいはその背景に通い婚(妻問婚)や婿取婚という結婚制度の歴史が関係していることがわかりました。
奥さんの実家が権力を握ることができた理由、みなさんもぜひ動画で学んでください。

外戚とは

外戚とは「母方の親族の総称」のことだそうです。
中国では宦官 vs 外戚の争いがしばしば起こるなど、皇帝の后の実家が世を乱す原因になることも多かったようです。
日本ではこうした対立が起きることは少なかったですが、やはり歴史的に皇后の実家(とその一族)が権力を独占することはよくありました。このあたりは天皇自ら政治を行う「皇親政治」を志向する天皇があまりいなかったり、あるいはそうなるように教育されていた影響もあるのかもしれません。

外戚の立場をもっとも効果的に利用したのは藤原氏で、娘を天皇に嫁がせて、その子どもが天皇になると自ら摂政や関白の地位について、さらにその天皇にも一族から嫁がせて次の天皇の摂政・関白になるというシステムを構築しました。
番組ではこれを「権力の永久機関!」と表現しましたが(じっさいには永久ではないけど)、たんに藤原氏=摂関政治と捉えてしまうとどういう手練手管を使ってそのポストを維持できたのかが見えないのですが、ここに外戚という立場への理解が加わると極めて盤石な仕組みであることがよくわかります。
立場がポストを守り、ポストが立場を強化するというか。

そして外戚に牛耳られることを嫌がった白河天皇がはじめたのが(退位後も天皇としての権力を握り続ける)「院政」というシステムだというのもおもしろい。
歴史というのは常に作用反作用を繰り返しているわけですが、外戚と摂関政治と院政をつなげて考えてこなかったので、今回の講義はとても新鮮でした。

ただこの外戚の効果・効力は時代とともに衰退します。
ひとつは先程の院政に代表されるように、これまで「母方」の影響が強かったのに対して「父方」つまり内戚(ないせき)の影響力が増してきたからです。
治天の君が天皇ではなく上皇を指すようになったことも含め、鎌倉時代あたりから就いている役職よりも家長・氏長者(うじのちょうじゃ)といった立場に重きを置くようになります。源頼朝が「武家の棟梁」にこだわったのも根っこは同じです。

また同時に婚姻制度の変化も外戚の立場を弱める原因になりました。
それまでは通い婚(妻問婚)や婿取婚だったため、子どもは幼少期を奥さんの実家で過ごすことになります。そりゃ母方のおじいちゃんになつくし、優遇もするというものです。
しかし鎌倉時代あたりから嫁取婚が登場し、父方で養育されるようになると外戚の影響力も自然と弱まります。大河ドラマでも夫の家で奥さんが暮らしていますよね。
もっとも後述しますが、ここであらたに登場してくるのが乳母の存在で、父方で養育されるといっても実母が育てることは少なく、代わりに養育する乳母が権力に近づく結果になりました。

婚姻制度の歴史まで関わってくるのはおもしろいですよね。
そもそも戦国時代にはたくさんの政略結婚がありましたが、濃姫が織田家に嫁ぎ、お市が浅井家に嫁ぐというのは嫁取婚じゃないと無理です。嫁取婚だから人質として意味があったわけで、信長や長政が嫁の実家に通っていたら意味がない。
榎本先生と話していると知ってることと知らないことが重なり合って、歴史への理解が深まっていく体験をよくするのですが、今回は過去で一番だったかも。

乳母とは

この動画はずいぶん前に収録したもので、確認したら収録日は2022年4月22日(金)でしたが、当時はまだ大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で比企氏の変が描かれる前でした。
まさにこの比企氏 vs 北条氏は乳母の立場同士の争いでしたね。頼家も実朝も母はいずれも北条政子なのでどちらが鎌倉殿になっても北条氏は外戚となります。しかしその次がない。権力の永久機関をつくるには、将軍の嫁を輩出しつづける必要があるのは藤原氏が実践したとおりなので、もし頼家の子(=生母は比企能員の娘)が次の鎌倉殿になれば比企氏に外戚の座を奪われることになります。

将軍候補の後ろ盾としての実力者同士の争いであることはまちがいないのですが、ここに乳母や外戚の理解があると、より楽しめますよね。
鎌倉時代の場合は乳母・外戚・執権という3つの立場を一族で独占することが重要だったわけです。

戦国時代以降は当主を中心に強固な組織が形成されることもあり、さすがに乳母の立場は弱まりますが、それでも織田信長の乳兄弟である池田恒興、伊達政宗の乳母・喜多の異父弟にあたる片倉景綱、淀殿の乳母・大蔵卿局の子である大野治長など、乳母の関係を通じて出世した人物は多数います。
そして江戸時代でも、おそらくもっとも有名な乳母である春日局がいますよね。こうしてかつての摂関や執権ほどではないにせよ、乳母の立場でも権力は行使できたわけです。

けっきょくのところ権力者の幼少期をともに過ごすというのは強い影響を残すのでしょうね。
現代でも「おじいちゃん子(おばあちゃん子)」という言葉があったりしますが、生みの親より育ての親に愛情が向くのは自然なことだし、本人が権力者になれば感謝の気持ちから恩恵を与えたくなるのも理解できます。

「鎌倉殿の13人」はついに今週、最終回を迎えますが、比企能員役の佐藤二朗さんらを思い返しながら動画を見てみてください!
(もっと早く公開すべきだった……)

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する