真田といえば、豊臣秀吉に「表裏比興の者(表裏があって信用ならない者の意味)」と呼ばれた謀将・真田昌幸(さなだ まさゆき)と、その子で徳川家康を後一歩までに追いつめ「真田日本一の兵」と讃えられた勇将・真田幸村が有名だ。
しかし、ここで紹介する昌幸の父親・真田幸隆(さなだ ゆきたか。正しくは幸綱(ゆきつな))もその活躍では彼らに負けていない。忍者を使っての情報戦や裏切り工作などの謀略を得意とし、武田信玄の軍師として活躍した彼は、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けており、家中でも「攻め弾正」の異名で一目置かれていた。
真田氏は信濃(現在の長野県)小県郡(ちいさがたぐん)の豪族・海野氏(うんのし)から分かれたとされ、真田郷を領有するようになってからこの名前を名乗ったという。このあたりは幸隆の父の名前も含めてかなり諸説あってハッキリとしていないところがある。
ところが、1541年(天文10年)に武田信虎(たけだ のぶとら)・諏訪頼重(すわ よりしげ)・村上義清(むらかみ よしきよ)が攻めてきて、幸隆を含めた真田氏・海野氏は小県郡から追われてしまう。
彼は上野に逃れ、その後に信虎を追放して実権を握った武田信玄の配下となる。この頃の信玄は諏訪頼重を滅ぼし、さらに村上義清と戦うも1548年(天文17年)の「上田原(うえだはら)の戦い」で敗れるなど、信濃方面に軍を進めていた。
そのため、信玄がこの方面に詳しい人材を求める中で、幸隆が取り立てられることになる。そして、彼はこの時期に苦戦が目立つ信玄を支え、大きな役割を果たしていくことになるのだ。
1550年(天文19年)、武田信玄は村上義清の戸石城(砥石城とも)を攻めるも攻めきれず、さらに義清が他の武将を動かして武田軍の退路を断とうとしたために軍を退く。
ところが、ここを追撃され、後に「戸石崩れ」と呼ばれる大きな被害を受ける。
この時に幸隆がいち早く撤退を提案したために武田軍の損害は抑えられたという説もあるのだが、彼の活躍はむしろここから始まる。幸隆は戸石城の兵士たちや周辺の武将たちに寝返り工作を執拗に仕掛け、この堅城を骨抜きにすることに成功する。
そして「戸石崩れ」の翌年、ついに自分の手勢だけで戸石城を陥落させてしまうのだ。
この勝利の影響は大きく、2年後に信玄は前半生の宿敵とも言える義清を撃破する。
彼は生涯二度しか敗北しなかったのだが、その二度の黒星をつけたのが義清だったわけで、その強敵を倒すのに活躍した幸隆の働きの大きさは言うまでもない。
しかし、敗れた義清が越後の上杉謙信を頼ったため、信玄と謙信はその後何度も川中島において戦うことになる。幸隆は上杉家との最前線で戦い続け、1556年(弘治2年)には信濃尼巌城(あまかざりじょう)を攻略し、小山田昌行とともに城番を務める。
また、「啄木鳥戦法」や信玄と謙信の一騎打ちで世に名高い「第4次川中島の戦い」にも出陣し、この時は別働隊に参加した。
「第4次川中島の戦い」のあと信濃北部の戦況が落ち着くと、信玄は上野吾妻郷の斎藤憲弘(さいとう のりひろ)という武将を攻撃する。
この場所が幸隆の出身地である信濃小県郡と隣接していることもあって、彼は斎藤憲弘の居城・岩櫃城(近年の研究によると別の岩下城という城であったともされている)攻撃に活躍する。
そして、この時も幸隆の策略が光る。
まず3千の兵で攻撃を仕掛けるが、天然の要害に築かれた岩櫃城はなかなか落ちない。しかしこれは幸隆の作戦通りだった。
和睦交渉を持ちかけて敵を油断させると、その隙に一族の者や重臣を裏切らせ、さらに忍者を使って城内に火を掛けさせる。どんなに防御の堅い城も中から攻められると脆いもので、こうして岩櫃城は陥落したのだ。
さらに幸隆の活躍は続く。斎藤の残党が立てこもる上野獄山城を攻めている際に上杉謙信が援軍を出してくると、「信玄が出陣する」という虚言を流して防御側の戦意を挫き、とりあえずの停戦に持ち込んだのだ。
翌年、落ち延びていた憲弘の嫡男の憲宗が援軍を連れて戻ってくると、ここぞとばかりに幸隆は動き出す。憲宗らに和睦と岩櫃城の返還をちらつかせて接触を図る一方で再び敵方の重臣を裏切らせ、総攻撃を仕掛けてこれを打ち破る。
さらにこの2年後に白石城という城もやはり策謀を使って陥落させた。
晩年はかつての領地だった信濃小県郡に加えて上野吾妻(あがつま)郷も与えられ、その経営にあたっていた。
病没したのは信玄の死の翌年の1574年(天正2年)、岩櫃城でのこと。こうして彼が基盤を築いた上に、真田昌幸・幸村といった、戦国の終盤を飾る謀将。勇将が登場してくるのだ。